日本語と日本文化


能「春日龍神」:明恵上人の入唐渡天


能「春日龍神」は、春日神社の龍神の口を通して、天竺の仏より日本の神の方が御威光があると、国粋主義的な主張を述べ立てたものである。すなわち、入唐渡天の志を抱いた明恵上人が春日神社にいとまごいにやってくると、宮森に化けた龍神が現れ、上人に入唐渡天の志を思いとどまらせようとする。その理由として龍神は、仏在世のときなら渡天の御利益もあっただろうが、仏が入滅したいまでは、この春日山こそが霊鷲山であり、春日野は鹿野苑、比叡山は天台山、吉野・筑波は五台山をうつしたものだからという。そして、入唐渡天を思いとどまるならば、自分が仏法の眷属を引き連れて、釈迦の誕生から入滅までの一代記を見せてやろうと約束する。

結局明恵上人は、春日竜神の言葉に説得されて入唐渡天を思いとどまり、それへの褒美として、春日竜神が眷属を引き連れて壮大な舞を披露する。

構成上は前後二段になっているが、世阿弥の複式夢幻能とは異なり、幽玄な趣は感じられず、祝祭的な雰囲気が強い。そのことから、世阿弥以前に成立した古能ではないかと思わせる。

見どころは、後段の舞の部分。謡曲では八大眷属が次々と名乗りを上げることになっているので、もともとは複数のツレが登場して、賑やかに舞働きをしていたのではないかと思われる。

明恵上人は鎌倉時代の高僧で、栄西から茶種を譲り受け、それを広めたことで有名だ。実際に入唐渡天を計画したことがあり、それを思いとどまった経緯などについて、古今著聞集や沙石集に言及があるところから、この話は広く行き渡っていたのだろうと推測される。この能の古名を「明恵上人」といったことにも、それがうかがわれる。

ここでは、先日NHKの正月番組で放送した金春流の舞台を紹介する。シテは金春安明、ワキは宝生閑だった。

舞台にはまず、ワキ(明恵上人)と従僧二人が登場する。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)上人らは、山城の栂ノ尾を出て、春日神社へ向かう途上である。用向きは、入唐渡天の志を遂げるにあたって、春日の明神にいとまごいすることだった。

ワキ、ワキツレ二人次第「日の行方も其方ぞ、と。日の行方も其方ぞと。日の入る国を尋ねん。
ワキ詞「是は栂尾の明恵法師にて候。我入唐渡天の志有るにより。御暇乞の為に春日の明神に参らばやと思ひ。唯今南都に下向仕り候。
道行三人「愛宕山。樒が原をよそに見て。樒が原をよそに見て。月に双{ならび}の岡の松。緑の空も長閑なる都の山を跡に見て。是も南の都路や。奈良坂越えて三笠山。春日の里に着きにけり。春日の里に着きにけり。
シテ一セイ「晴れたる空に向へば。和光の光。あらたなり。
サシ「夫れ山は動かざる形を現じて。古今にいたる神道を現し。里平安の巷を見せて。人間長久の声満てり。真に御名も久方の。天の児屋根の世々とかや。
下歌「日に立つかげも鳥居の二柱。
上歌「御社の。誓もさぞな四所の。誓もさぞな四所の。神の代よりの末受けて。澄める水屋の御影まで塵に交はる神慮{かみごころ}。三笠の森の松風も。枝を鳴らさぬ。気色かな枝を鳴らさぬ気色かな。

上人らが春日神社に到着すると、宮森の老人がシテとして現れる。老人は神に代って上人の到来を喜ぶが、上人から入唐渡天の志を聞くと、早速思いとどまるよう説得しにかかる。

ワキ詞「いかにこれなる宮つこに申すべき事の候。
シテ「や。これは栂尾の明恵上人にて御座候ふぞや。唯今の御参詣。さこそ神慮に嬉しく思し召し候ふらん。
ワキ「さん候唯今参詣申す事余の儀にあらず。我入唐渡天の志あるにより。御暇乞のために唯今まゐりて候。
シテ「これは仰にて候へども。さすが上人の御事は。年始より四季折々の御参詣の。時節の少しの遅速をだに。待ち兼ね給ふ神慮ぞかし。されば上人をば太郎と名付け。笠置の解脱上人をば次郎とたのみ。左右の眼両の手の如くにて。昼夜各参の擁護懇なるとこそ承りて候ふに。日本を去り入唐渡天し給はん事。いかで神慮に叶ふべき。唯思し召しとまり給へ。

そこで上人が、入唐渡天の志は仏跡を拝まんためと答えると、なにもインドまで行かずとも、日本に居ながらにして仏のありがたさは知ることができると、なおも思いとどまるように説得する。

ワキ「実に/\仰せはさる事なれども。入唐渡天の志も。仏跡を拝まんためなれば。何か神慮に背くべき。
シテ「これ又仰とも覚えぬものかな。仏在世の時ならばこそ。見聞の益も有るべけれ。今は春日の御山こそ。即ち霊鷲山なるべけれ。其うへ上人初参の御時。奈良坂の此手を合はせて礼拝する。人間は申すに及はず心なき。
地歌「三笠の森の草木の。三笠の森の草木の。風も吹かぬに枝を垂れ。春日山野辺に朝立つ。鹿までも。皆ことごとく出で向ひ。膝を折り角を傾け上人を礼拝する。かほどの奇特を見ながらも真の浄土は何処ぞと。問ふは武蔵野の。果しなの心や。唯返す返す我が頼む。神のまに/\とゞまりて。神慮をあがめおはしませ神慮をあがめおはしませ。

老人のいうことに感心した明恵上人は、春日神社のいわれについてなおも詳しく知りたいと望む。それに対して老人のシテは、居グセの形で、春日の山が霊鷲山、比叡山が天台山などと語り出す。

ワキ詞「なほ/\当社の御事委しく御物語り候へ。
シテサシ「然るに入唐渡天といつぱ。仏法流布の名を留めし。
地「古跡を尋ねんためぞかし。天台山を拝むべくは。比叡山に参るべし。五台山の望あらば。吉野筑波を拝すべし。
シテ「昔は霊鷲山。
地「今は衆生を度せんとて。大明神と示現し。此山に宮居し給へば。
シテ「即ち鷲の。御山とも。
地「春日の御山を。拝むべし。
クセ「我を知れ。釈迦牟尼仏世に出でて。さやけき月の。世を照らすとはの御神詠もあらたなり。然れば誓ある。慈悲万行の神徳の。迷を照らすゆゑなれや。小機の衆生の益なきを。慈しみ給ふ御姿。瓔珞。細軟の衣を脱ぎ。麁弊の。散衣を着しつゝ。四諦の御法を説き給ひし鹿野苑もこゝなれや。春日野に起き臥すは鹿の苑ならずや。
シテ「其外当社の有様の。
地「山は三笠に影さすや。春日そなたに。現れて。誓を四方に春日野の。宮路も末あるや曇なき西の大寺月澄みて。光ぞまさる七大寺。御法の花も八重桜の。都とて春日野の春こそ長閑けかりけれ。

老人の説得に負けた明恵上人はついに入唐渡天を思いとどまると約束する。それに喜んだ老人は、自分は神のつかい時風秀行と名乗り、上人に仏の有難いさまを見せてやろうと言い残して去る。

ワキ詞「実に有難き御事かな。即ちこれを御神託と思ひ定めて。此度の入唐をば思ひ留まるべし。さて/\御身は如何なる人ぞ。御名を名乗り給ふべし。
シテ詞「入唐渡天をとゞまり給はゞ。三笠の山に五天竺を写し。摩耶の誕生伽耶の成道。鷲峰の説法。
地「双林の入滅まで悉く見せ奉るべし暫くこゝに待ち給へと。ゆふしでの神の告。我は時風秀行ぞとてかき消すやうに。失せにけりかき消すやうに失せにけ
り。

中入では間狂言が出てきて、これまでのやり取りをおさらいする。するとそのうち、春日の山が黄金色にそまり、不思議な仏体となってゆく。

ワキ、ワキツレ二人歌待謡「神託まさにあらたなる。神託まさにあらたなる。声の内より光さし。春日の野山金色の。世界となりて草も木も仏体となるぞ。不思議なる仏体となるぞ不思議なる。

ここで早笛にいざなわれてシテが登場する。シテは、一人で何役もこなし、次々と眷属の名乗りをあげていく。

地「時に大地。震動するは。下界の龍神の参会か。
後シテ「すは。八大龍王よ。
地「難陀龍王。
シテ「跋難陀龍王。
地「娑伽羅龍王。
シテ「和修吉龍王。
地「徳叉迦龍王。
シテ「阿那婆達多龍王。
地「百千眷属引き連れ/\。平地に波瀾を立てゝ。仏の会座に出来して。御法を聴聞する。
シテ「其ほか妙法緊那羅王。
地「また持法緊那羅王。
シテ「楽乾闥婆王。
地「楽音乾闥婆王。
シテ「婆稚阿修羅王。
地「羅〓{目へん+候}阿修羅王の。恒沙の眷属引連れ/\。これも同じく坐列せり。龍女が立ち舞ふ波欄の袖。龍女が立ち舞ふ波欄の袖。白妙なれやわだの原の。払ふは白玉立つは緑の。空色も映る海原や。沖行くばかり。月の御舟の。佐保の川面{かわづら}に。浮み出づれば。
シテ「八大龍王。

ひととおり名乗り終わったところで、舞働をする。

シテ「八大龍王は。
地「八つの冠を傾け。所は春日野の。月の三笠の雲に上り。飛火の野守も出で見よや。摩耶の誕生。鷲峰の説法。双林の入滅。ことごとく終りてこれまでなりや。明恵上人さて入唐は。
ワキ「とまるべし。
地「渡天は如何に。
ワキ「渡るまじ。
地「さて仏跡は。
ワキ「尋ぬまじや。
地「尋ねても/\此上嵐の雲に乗りて。龍女は南方に飛び去り行けば。龍神は猿沢の池の青波蹴立て/\て。其丈千尋の大蛇となって。天に群がり。地に蟠りて池水を返して。失せにけり。

この演出では、春日龍神一人であるが、古い演出では、複数のツレがでて、それぞれの眷属を演じていたとも考えられる。


    


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