日本語と日本文化


能「土蜘蛛」:千筋の糸


土蜘蛛は「大江山」や「羅生門」などと同じ系列に属する風流能である。派手なアクションが見世物になっており、初心者にもわかりやすく、人気のある曲だ。歌舞伎の演目としてもなじみが深い。

筋は源頼光の伝説に取材している。ごく単純な内容だ。頼光に妖術をかけて病に陥れている土蜘蛛がとどめをさそうとして襲ってくる。頼光は脇差の膝丸を抜いていったん撃退するが、部下の独武者に命じて逃げた後を追いかけさせ、塚の中に隠れている土蜘蛛を退治するというものである。

土蜘蛛は独武者らの追っ手に対して、千筋の糸を繰り出して反撃する。この時に土蜘蛛が次から次へと繰り出す糸が舞台一面を覆い隠し、ちょっとしたスペクタクルを現出する。この糸はもともとは、太くて短いものだったらしいが、徳川時代の末期に現在のように長くて細いものが考案された。

劇の構成は複式無限能はもとより、古風な現在能ともだいぶ異なっている。シテの土蜘蛛は前触れもなくいきなり登場するし、ワキの独武者も土蜘蛛と前後して途中から登場する。頼光がシテツレになっているところも独特だ。

ここで紹介するのは、先日NHKが放送した観世流の能。黒頭という小書を採用し、間狂言はササガニに扮していた。

舞台右手の脇座に台が据えられ、そこに頼光が登場して臥す姿勢をとる。枕元には脇差の膝丸をひそめさせて置く。そこへ典薬の頭から薬をもらった胡蝶が戻ってくる。(以下テクストは半魚文庫を活用)

胡蝶次第「浮き立つ雲の行くへをや。浮き立つ雲の行くへをや。風のこゝちを尋ねん。
サシ「これは頼光の御内に仕へ申す。胡蝶と申す女にて候。
詞「さても頼光例ならず悩ませ給ふにより。典薬の頭より御薬を持ち。唯今頼光の御所へ参り候。いかに誰か御入り候。
従者詞「誰にて御座候ふぞ。
胡蝶詞「典薬の頭より御薬を持ちて。胡蝶が参りたるよし御申し候へ。
従者詞「心得申し候。御機嫌を以つて申し上げうずるにて候。

胡蝶を迎え入れた頼光は、心身の具合が日ごとに悪くなっていくことを嘆くが、胡蝶は薬を飲めばきっと直りますからと慰める。

頼光サシ「こゝに消えかしこに結ぶ水の泡の。浮世に廻る身にこそありけれ。げにや人知れぬ。心は重き小夜衣の。恨みん方もなき袖を。かたしきわぶる思かな。
従者詞「いかに申し上げ候。典薬の頭より御薬を持ちて胡蝶の参られて候。
頼光詞「此方へ来れと申し候へ。
従者詞「畏つて候。此方に御参り候へ。
ツレ詞「いかに申し上げ候。典薬の頭より御薬を持ちて参りて候。御心地は何と御入り候ふぞ。
頼光詞「昨日よりも心地も弱り身も苦みて。今は期を待つばかりなり。
ツレ「いや/\それは苦しからず。病うは苦しき習ながら。療治によりて癒る事の。例は多き世の中に。
頼光「思ひも捨てず様々に。
地「色を尽して夜昼の。色を尽して夜昼の。境も知らぬ有様の。時の移るをも。覚えぬほどの心かな。げにや心を転ぜずそのまゝに思ひ沈む身の。胸を苦しむる心となるぞ悲しき。

独りで臥している頼光のもとへ、僧形に身を包んだ土蜘蛛が訪れる。直面である。土蜘蛛は「我がせこが。来べき宵なりさゝがにの」と歌うや、いきなり千筋の糸を繰り出して頼光を襲う。頼光の方も膝丸を取り出して反撃し、土蜘蛛を撃退する。

僧(土蜘蛛)一声「月清き。夜半とも見えず雲霧の。かゝれば曇る。心かな。「いかに頼光。御心ちは何と御座候ふぞ。
頼光「不思議やな誰とも知らぬ僧形の。深更に及んでわれを訪ふ。その名はいかにおぼつかな。
僧詞「愚の仰候ふや。悩み給ふも我がせこが。来べき宵なりさゝがにの。
頼光「くもの振舞かねてより。知らぬといふに猶近づく。姿は蜘蛛の如くなるが。
僧詞「かくるや千条の糸条に。
頼光「五体をつゞめ。
僧「身を苦しむる。
地上歌「化生と見るよりも。化生と見るよりも。枕にありし膝丸を。抜き開きちやうと切れば。そむくる所をつゞけざまに。足もためず。薙ぎ伏せつゝ。得たりやおうとのゝしる声に。形は消えて失せにけり。形は消えて失せにけり。

僧中入 早鼓。ここでいったんシテの土蜘蛛は中入し、代わって独武者が登場する。

頼光は先ほど僧に扮した土蜘蛛に襲われたこと、膝丸の力で土蜘蛛を撃退したこと、これからは膝丸の名を改めて蜘蛛切と名づけようと思うことなどを話して聞かせる。独武者は土蜘蛛の残した血のあとを追いかけて、退治にでかけようと誓う。

<早鼓>独武者詞「御声の高く聞え候ふ程に馳せ参じて候。何と申したる御事にて候ふぞ。
頼光詞「いしくも早く来たる者かな。近う来り候へ語つて聞かせ候ふべし。
物語「偖も夜半ばかりの頃。誰とも知らぬ僧形の来り我が心ちを問ふ。何者なるぞと尋ねしに。我がせこが来べき宵なりさゝがにの。蜘蛛の振舞かねてしるしもといふ古歌を連ね。即ち七尺ばかりの蜘蛛となつて。我に千条の糸を繰りかけしを。枕にありし膝丸にて切り伏せつるが。化生の者とてかき消すやうに失せしなり。これと申すもひとへに剣の威徳と思へば。今日より膝丸を蜘蛛切と名づくべし。なんぼう奇特なる事にてはなきか。
独武者詞「言語道断。今に始めぬ君の御威光剣の威徳。かたがた以つてめでたき御事にて候。また御太刀つけのあとを見候へば。けしからず血の流れて候。此血をたんだへ。化生の者を退治仕らうずるにて候。
頼光詞「急いで参り候へ。
独武者「畏つて候。

早鼓中入。ここで本格的な中入となり、頼光はじめすべての役者が退場した後で、二人の間狂言が登場する。蟹の面をかぶり、蟹のように横様にあるき、両手の指を鋏のように動かしながら、ユーモラスに振舞う。

先ほどからのいきさつを聞いた蟹は、自分たちが退治されるのではないかと心配する。というのも「我がせこが来べき宵なりさゝがにの蜘蛛の振舞」とある言葉を聞いて、土蜘蛛退治が自分たちにも及ぶのではないかと勘違いしたからだ。

だが「ささがに」という言葉と自分たちとは関係がないとわかって安心した蟹たちは、独武者に加勢しようといって、出かけていく。

後半は独武者とその配下たちによる土蜘蛛退治の場面である。独武者たちは、土蜘蛛が流した血の跡をたどって行くうち、それらしき塚に行き着く。舞台にはあらかじめ、土蜘蛛の入った塚の作り物が据えられている。

独武者立衆一声「土も木も。我が大君の国なれば。いづくか鬼の。やどりなる。独武者「其時独武者進み出で。彼の塚に向ひ大音あげていふやう。これは音にも聞きつらん。頼光の御内に其名を得たる独武者。いかなる天魔鬼神なりとも。命魂を断たん此塚を。
地「崩せや崩せ人々と。呼ばはり叫ぶ其声に。力を得たる。ばかりなり。
地ノル「下知に従ふ武士の。下知に従ふ武士の。塚を崩し石をかへせば。塚の内より火焔を放ち。水を出すといへども。大勢崩すや古塚の。怪しき岩間の陰よりも。鬼神の形は。顕れたり。

塚の中から姿を現した土蜘蛛は、独武者たちに対して千筋の糸を投げかけて迎え撃つ。最大の見せ場だ。

後シテ「汝知らずやわれ昔。葛城山に年を経し。土蜘蛛の精魂なり。猶君が代に障をなさんと。頼光に近づき奉れば。却つて命を断たんとや。
独武者「其時独武者進み出で。
ワキ地「其時独武者進み出でて。汝王地に住みながら。君を悩ます其天罰の。剣にあたつて。悩むのみかは。命魂を断たんと。手に手を取り組みかゝりければ。の精霊千条の糸を繰りためて。投げかけ投げかけ白糸の。手足に纏り五体をつゞめて。仆れ臥してぞ見えたりける。

舞働 土蜘蛛と独武者たちの攻防が、はでなパフォーマンスで繰り広げられるが、独武者たちはついに土蜘蛛退治に成功する。

独武者「然りとはいへども。
地「然りとはいへども神国王地の恵を頼み。かの土蜘蛛を中に取りこめ大勢乱れ。かゝりければ。剣の光に。少し恐るゝ気色を便に切り伏せ切り伏せ土蜘蛛の。首うち落し喜び勇み。都へとてこそ。帰りけれ。


    


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