日本語と日本文化


能「三笑」:虎渓三笑


能「三笑」は中国の故事「虎渓三笑」を題材にしたものだ。「虎渓三笑」の出典は「盧山記」。儒、仏、道の三賢者が一同に会して話をしたところ、お互いに尽きせぬ興味を感じ、すっかり夢中になってしまった挙句、日頃の自戒を忘れて羽目を外し、互いに大笑いしたというものだ。

この故事には、禅僧の慧遠、道士の陸修静、詩人の陶淵明の三人が出てくるが、三人とも歴史上異なった時代に生きていた人々だ。それゆえ故事といっても作り話に過ぎないが、事実よりも話に含まれているユーモアが愛されて、長らく人々の間に伝えられてきた。今でも「虎渓三笑」といえば、中国人にとっては、身近な譬えとしてよく使われる言葉だそうだ。

能では慧遠禅師がシテとなっており、陸修静と陶淵明がシテツレとして禅師を訪ねるという設定になっている。つまりこの能にはワキが出てこないのだ。

慧遠禅師は廬山の奥深く隠棲している。そこは虎渓という谷を超えた彼方にある。禅師はその虎渓の奥から決して出ないという決意を自戒としていた。しかし訪ねてきた二人と夢中になる余り、彼らの帰りを送ってつい虎渓から外へ出てしまった。そのことを三人で大笑いするというのが、この能の筋である。

ここでは先日NHKが放映した宝生流の舞台を紹介したい。シテは近藤乾之助。二人のシテツレのほか、舞い方の少年が登場する珍しい演出だった。

舞台には作り物が置かれ、そこにシテの慧遠禅師が坐するところから始まる。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)

シテサシ「普の慧遠廬山のもとに居して。三十余年隠山を出でず。白蓮社を結び並に十八の賢あり。其外数百人世を捨て。栄を忘れて共に西方を修し。六字を礼して此草庵に遊止す。
下歌「かくて流を枕とし。岩にロをすゝぎて。
上歌「行住坐臥の行に。行住坐臥の行に。座禅の床をもる月も西に傾くをりふしは。洞煙谷雲の内よりも。瀑布の滝の白妙に。曙の山の姿。譬へん方ぞなかりける。

シテが舞台の袖に退くと、ワキ方二人と舞い方の少年が登場する。

ツレ二人一セイ「雲無心にして以て岫を出で。鳥飛ぶが如くに倦んで。還ることをや。知らすらん。
上歌「頃もはや。霜降月の曙に。霜降月の曙に。野山の草の色もはや散るもみぢ葉に映ろひて。枯野になれど白菊の。花はさながら紅の。八汐に見ゆる気色かな。八汐に見ゆる気色かな。
淵明詞「いかに此草庵に慧遠禅師の渡り候ふか。陶淵明陸修静これまで参りて候。
シテ「その時禅師は白蓮社を出で。書を以て淵明を招きければ。
ツレ二人「二人は共に拝をなし。
地 上歌「廬山のさかしき石橋を。心静かに渡りつゝ。巌に腰をかけ。瀑布を眺め給ヘり。三千世界は眼に尽き。十二因縁は。心のうちにきはもなし。

舞い方の少年が静かに舞った後、ツレがシテに声をかける。

淵明詞「いかに慧遠禅師に申すべき事の候。
シテ詞「何事にて候ふぞ。
淵明「さて廬山に至らざらん者はこれ僧にあらずと申し候ふよなう。
シテ「げに/\左様に申し候。
淵明「扨々瀑布と云ふ事は。いかなる謂のあるやらん。
シテ「いや/\異なる事はなし。万仭名を得て瀑布といふ。
修静「日香炉を照しで紫煙をなす。
シテ詞「遠く見れば織るが如くにして天台に掛く。
淵明「宝尺を疑ふ事を休めよ度りがたし。
シテ「たゞちに金刀の剪栽し易きを恐る。
修静「傾き来つて石上に春雷をなす。
淵明「知らんと欲すこれ銀河の水なる事を。
シテ「人間に堕落して。
修静「合して。
シテ「かへつて。
淵明「廻る。
地「三国無双のこの滝を。今まで拝せぬ心こそ愚なりけれ。本より琴詩酒の友なれば。心静かに昔をいざや語らん。

クリ、サシを省き、簡単なクセのあと、シテによる長閑な舞が披露される。舞の最後に、三人が虎渓を出て互いに笑いあう場面が演じられて、能は一気にキリとなる。

クセ「抑この淵明と申すは。彭沢の令となる。官にある事。八十余日。印を解いて去るとかや。日夜に酒を愛し。松菊を翫ぶ。菊を東籬の下に採つて。南山を見る事も。君に忠ある故とかや。
シテ「又陸修静は。
地「宋の明帝の御時に仙の法を学んで。陸道士と申すとか。後には当山の簡寂観に。隠居してましませり。此人々は天下にも並ぶ方もなき事なれば。廬山の虎渓にも劣らぬ光なりけり。
シテ「菊の白露積り積つて。不老不死の薬の泉。よも尽きじ。
地「幾万代も限らじな。さす盃の廻る夜も。さす盃の廻る夜も。明くれば暮るゝも白菊の。花を肴に立ち舞ふ袂酒狂の舞とや。人の見ん。
シテ「万代を。
地「万代を。万代を。松は久しき例なり。松は久しき例なり。
シテ「年をおい松も緑は若木の姫小松。
地「四季にも同じ葉色の常磐木の。松菊を愛し。かなたこなたへ足もとは泥々々々と苔むす橋を。よろめき給へば淵陸左右に。介錯し給ひて。虎渓を遥に出で給へば。淵明禅師にさて禁足は破らせ給ふかと。一度にどつと手をうち笑つて。三笑の昔と。なりにけり。


    


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