能「鉄輪」:嫉妬の呪い
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能「鉄輪」は、自分を捨てて新しく妻を迎えた夫に対して、恨みを晴らしたいとする女の激しい嫉妬の物語である。女の嫉妬を題材にしたものはほかに「葵の上」があるが、葵の上が貴族社会の優雅な生活を背景にしているのに対して、これは庶民の日常の生活を描いている点で、趣を異にしている。
貴船神社を舞台に、そこで行われていた丑刻詣での呪詛を絡めた異色の作品である。
前後二場構成をとっているが、複式無限能ではなく、現在能である。シテは前場では貴船神社に丑刻詣に出かけるところとされ、後場では憤怒の鬼の姿となって現れる。鬼は夫と女の人形に襲いかかり、彼らを呪い殺そうとするが、陰陽師阿部清明の呪文によって撃退される。
貴船神社の丑刻詣とか陰陽師阿部清明が出てくるところから、中世の民間信仰を背景にした作品だということもできる。
ここでは先日NHKが放映した喜多流の能を紹介したい。シテは香川靖嗣、ワキは森常好が演じていた。
狂言口開といって、狂言方が出てきて情況を説明することから始まる。ここでは貴船神社の宮司が狂言となって、女の嫉妬の願いを実現させてやろうというお告げがあったことを伝える。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)
狂言「かやうに候ふ者。貴船の宮に仕へ申す者にて候。さても今夜不思議なる霊夢を蒙りて候その謂は。都より女の丑の時詣をせられ候ふに申せと仰せらるゝ子細。あらたに御霊夢を蒙りて候ふ程に。今夜参られ候はゞ。御夢想の様を申さばやと存じ候。
そこへシテの女が現れる。女は泥目という面をかぶっている。これは恨みのこもった表情の面である。
女は夫に捨てられた悔しさを晴らすために、貴船神社へ丑刻詣でに行くのだという。
シテ次第「日も数そひて恋衣。日も数そひて恋衣。貴船の宮に参らん。
サシ「げにや蜘蛛のいへに荒れたる駒は繋ぐとも。二道かくるあだ人を。頼まじとこそ。おもひしに。人の偽末知らで。契りそめにし悔しさも。たゞわれからの心なり。余り思ふも苦しさに。貴船の宮に詣でつゝ。住むかひもなき同じ世の。うちに報を見せ給へと。
下歌「たのみを懸けて貴船川。早く歩をはこばん。
上歌「通ひなれたる道の末。通ひなれたる道の末。夜も糺のかはらぬは。思に沈む御泥池生けるかひなき憂き身の。消えんほどとや草深き市原野辺の露分けて。月遅き夜の鞍馬川。橋を過ぐれば程もなく。貴船の宮に着きにけり。貴船の宮に着きにけり。
女が貴船神社へ着くと、宮司が現れて、お前の恨みを晴らしてやるから、頭に鉄輪を戴き、その三本の足に火をともしてやってまいれ、そうすればお前を鬼神の姿にしてやろうと告げる。女は人違いだと一旦は辞退するが、恨みの気持ちの強さに負ける。そして鬼のような表情となって自分の家に戻っていく。ここがこの能のひとつの見どころである。
詞「急ぎ候ふ程に。貴船の宮に着きて候。心静かに参詣申さうずるにて候。
狂言「いかに申すべき事の候。御身は都より丑の刻詣めさるゝ御方にて候ふか。今夜御身の上を御夢想に蒙りて候。御申しある事は早叶ひて候。鬼になりたきとの御願にて候ふ程に。我が屋へ御帰あつて。身には赤き衣を着。顔には丹をぬり。頭には鉄輪を戴き。三つの足に火をともし。怒る心を持つならば。忽ち鬼神と御なりあらうずるとの御告にて候。急ぎ御帰あつて告の如く召され候へ。なんぼう奇特なる御告にて御座候ふぞ。
シテ詞「是は思ひもよらぬ仰にて候。わらはが事にはあるまじく候。さだめて人違にて候ふべし。
狂言「いや/\しかとあらたなる御夢想にて候ふ程に。御身の上にて候ふぞ。か様に申す内に何とやらん恐ろしく見え給ひて候。急ぎ御帰り候へ。
シテ「これは不思議の御告かな。まづ/\我が屋に帰りつつ。夢想の如くなるべしと。
地「云ふより早く色かはり。云ふより早く色かはり。気色変じて今までは。美女の形と見えつる。緑の髪は空ざまに。立つや黒雲の。雨降り風と鳴る神も。思ふ中をば避けられし。恨の鬼となつて。人に思ひ知らせん。憂き人に思ひ知らせん。
中入を利用して、箱物がすえられる。陰陽師の祈祷台だ。その上に男とその妻をかたどった人形が置かれる。
そこへ夫と陰陽師阿部清明が現れる。夫は最近毎晩のように夢見が悪いと訴える。清明は、それは女の呪いの為ゆえ簡単には解消しないという。
ワキツレ詞「かやうに候ふ者は。下京辺に住居するものにて候。われこの間うち続き夢見悪しく候ふ程に。晴明のもとへ立ち越え。夢の様をも占はせ申さばやと存じ候。いかに案内申し候。
ワキ「誰にて渡り候ふぞ。
ワキツレ「さん候下京辺の者にて候ふが。此程うち続き夢見悪しく候ふ程に。尋ね申さん為に参りて候。
ワキ「あら不思議や。勘へ申すにおよばず。これは女の恨を深くかうむりたる人にて候。殊に今夜の内に。御命も危く見え給ひて候。もし左様の事にて候ふか。
ワキツレ「さん候何をか隠し申すべき。われ本妻を離別し。新しき妻をかたらひて候ふが。もし左様の事にてもや候ふらん。
ワキ「げにさやうに見えて候。彼の者仏神に祈る数積つて。御命も今夜に極つて候ふ程に。某が調法には叶ひ難く候。
なんとか助けてもらいたいと夫に懇願された清明は、夫婦の人形に向かって祈念する。
ワキツレ「これまで参り御目に懸り候ふ事こそ幸にて候へ。平に然るべきやうに御祈念あつてたまはり候へ。
ワキ「この上は何ともして御命を転じかへて参らせうずるにて候。急いで供物を御調へ候へ。
ワキツレ「畏つて候。
ワキ「いで/\転じかへんとて。茅の人形を人尺に作り。夫婦の名字をうちに籠め。三重の高棚五色の幣。おの/\供物を調へて。肝胆を砕き祈りけり。謹上再拝。夫れ天開け地固つしよりこのかた。伊弉諾伊弉冊尊。天の磐座にして。みとのまくばひありしより。男女夫婦のかたらひをなし。陰陽の道。永く伝はる。それになんぞ魍魎鬼神妨をなし。非業の命を取らんとや。
地「大小の神祇。諸仏菩薩。明王部天童部。九曜七星二十八宿を驚かし奉り祈れば不思議や雨降り風落ち神鳴り稲妻頻にみち/\御幣もざゝめき鳴動して。身の毛よだちておそろしや。
そこへ後シテが現れる。橋姫の面をかぶり、その上に五徳の鉄輪を戴いている。五徳の足は赤くひかり、炎がともっていることを現している。
後シテ出端「夫れ花は斜脚の暖風に開けて。同じく暮春の風に散り。月は東山より出でて早く西嶺に隠れぬ。世情の無常かくの如し。因果は車輪の廻るが如く。われに憂かりし人々に。忽ち報を見すべきなり。恋の身の浮ぶ事なき加茂川に。
地「沈みしは水の。青き鬼。
シテ「我は貴船の川瀬の蛍火。
地「頭に戴く鉄輪の足の。
シテ「炎の赤き。鬼となつて。
地「臥したる男の枕に寄り添ひ。如何に殿御よ。めづらしや。
女は夫たちの人形を手づかみにし、彼らを呪い殺そうとする。だがその合間にも、夫への思慕の気持ちを表したりして、複雑な心のうちを垣間見せたりする。
シテ「恨めしや御身と契りしその時は。玉椿の八千代。二葉の松の末かけて。かはらじとこそ思ひしに。などしも捨ては果て給ふらん。あら恨めしや。捨てられて。
地「捨てられて。おもふ思の涙に沈み。人を恨み。
シテ「夫をかこち。
地「ある時は恋しく。
シテ「又は恨めしく。
地「起きても寐ても忘れぬ思の。因果は今ぞと白雪の。消えなん命は今宵ぞ。痛はしや
女の感情はいよいよ激しくなるが、最後には祈念の功徳がまさって女は撃退される。声だけ残して姿をかき消すのである。
地「悪しかれと。思はぬ山の峰にだに。思はぬ山の峰にだに。人のなげきはおふなるに。いはんや年月。思にしづむ恨の数。積つて執心の鬼となるも理や。
シテ「いで/\命を取らん。
地「いで/\命を取らんと。しもとを振り上げうはなりの。髪を手にからまいて。打つやうつの山の。夢現とも。分かざるうき世に。因果はめぐりあひたり。今さらさこそくやしかるらめ。さて懲りや思ひ知れ。
シテ「ことさら恨めしき。
地「ことさら恨めしき。あだし男を取つて行かんと。臥したる枕に立ち寄り見れば。恐ろしや御幣に。三十番神まし/\て。魍魎鬼神は穢らはしや。出でよ/\と責め給ふぞや。腹立や思ふ夫をば。取らであまさへ神々の。責を蒙る悪鬼の神通通力自在の勢絶えて。力もたよ/\と。足弱車の廻り逢ふべき時節を待つべしや。まづこの度は帰るべしと。いふ声ばかりはさだかに聞えていふ声ばかり聞えて姿は目に見えぬ鬼とぞなりにける目に見えぬ鬼となりにけり。
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