日本語と日本文化


能「巻絹」:熊野三山と歌の功徳


能「巻絹」は、熊野三山を舞台にして、歌の功徳を歌ったものだ。筋書きはごく単純で、熊野に絹の奉納を命じられた使者が、途中音無の宮で歌を詠んだりして遅れたことを理由にいましめを受けたところ、熊野の神が巫女に乗り移って現れ、歌の功徳に免じて使者のいましめを解いてやるというものである。

登場人物も三人しか出てこない。臣下(ワキ)、巻絹の使者(ツレ)そして巫女(シテ)である。通常神社の神をテーマにした能では、神は後段であらわれ、神秘的な神舞を舞うというのが基本だが、ここでは神は直接出てこず、巫女に乗り移った形で出てくる。

巫女は登場した段階から、神がかった雰囲気を漂わせ、使者のいましめを解いた後、神舞を舞うのだが、巫女が舞い終わると満足して天へと帰っていき、そこで巫女は憑かれた状態から服するということになっている。だからこの能の見所は、巫女の時々の状態を演者がどう表現するかという点と、巫女の舞う神舞にある。

作者も出典も不明の古い能だ。四番目に分類されるが、時に脇能として演じられることもある。

ここで紹介するのは先日NHKが放送した金剛流の舞台。シテは金剛永勤がつとめていた。

舞台にはまず臣下が現れ、天子の霊夢のお告げにより、諸国より千疋の巻絹を集めて熊野三山に奉納せよとの宣旨が下ったと知らせる。ところが続々と収められる巻絹の中で、京からのものだけが遅れている。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)

ワキ詞「抑も是は当今に仕へ奉る臣下なり。さても我が君あらたなる霊夢を蒙り給ひ。千疋の巻絹を三熊野に納め申せとの宣旨に任せ。国々より巻絹を集め候。さる間都より参るべき巻絹遅なはり候。参りて候はゞ神前に納めばやと存じ候。

京から巻絹を持参した使者は、途中音無の天神へ参り、冬梅を見て、歌心をそそられる。だがまだそれがどんな歌なのかは、ここでは触れられない。ともあれこんなことがあって、使者は命じられた期限までに巻絹を収められなかったのである。

ツレ次第「今を始の旅ごろも。今を始の旅ごろも。紀の路にいざや急がん。
サシ「都の手ぶりなりとても。旅は心の安かるべきか。殊更これは王土の命。重荷をかくる南の国。聞くだに遠き千里の浜辺。山は苔路のさかしきを。いつかは越えん。旅の道。休らふ間も無き心かな。
下歌「これとても。君の恵によも洩れじ。
上歌「麻裳よい。紀の関越えて遥々と。紀の関越えて遥々と。山また山をそことしも。分けつゝ行けばこれぞこの。今ぞ始めて三熊野の。御山に早く着きにけり。御山に早く着きにけり。
詞「急ぎ候ふ程に。三熊野に着きて候。先々音無の天神へ参らばやと思ひ候。や。冬梅のにほひの聞え候。いづくにか候ふらん。げにこれなる梅にて候。この梅を見て何となく思ひ連ねて候。南無天満天神。心中の願を叶へて給はり候
へと。
地「神に祈の言の葉を。心の内に手向けつゝ。急ぎ参りて。先づ君に仕へ申さん。

使者が期限を過ぎて持参すると、待っていた臣下は大いに怒り、使者を縛りあげてしまう。

ツレ詞「いかに案内申し候。都より巻絹を持ちて参りて候。
ワキ「何とて遅なはりたるぞ。その為に日数を定め参るなかに。汝一人おろかなる。
地上歌「その身の科はのがれじと。その身の科はのがれじと。やがて縛めあらけなき。苦を見せて目のあたり。罪の報を知らせけり。罪の報を知らせけり。

そこへ巫女が現れ、縛られた使者の姿を見て嘆く。そして自らの手で解いてやろうとするが、縄は深く食い込み、女の力ではどうしようもない。

シテ詞「なう/\ その下人をば何とて縛め給ふぞ。その者はきのふ音無の天神にて。一首の歌をよみわれに手向けし者なれば。納受あれば神慮。少し涼しき三熱の。苦を免るそれのみか。人倫心なし。
詞「その縄解けとこそ。解けや手櫛のみだれ髪。
地「解けや手櫛の乱れ髪の。神は受けずや御注連の縄の。引き立て解かんとこの手を見れば。心強くも岩代の松の。何とか結びし。なさけなや。

不審に思った臣下が事情を聞くと、巫女は、この使者が遅くなったのは音無の神たる自分に歌を捧げていたからゆえ、解いてやれという。臣下はそんなことは信じられないから証拠を見せろというと、巫女は自分が上の句を読み、使者に下の句を言わせようと応える。上下の句をあわせると、「音無にかつ咲きそむる梅の花 匂はざりせば誰か知るべき」という歌なのだった。

ワキ詞「これはさて何と申したる御事にて候ふぞ。
シテ詞「この者は音無の天神にて。一首の歌を詠みわれに手向けし者なれば。とく/\縄を解き給へ。
ワキ「これは不思議なる事を承り候ふ物かな。かほど賎しき者の歌など詠むべき事思もよらず。いかさまにも疑はしき神慮かと存じ候ふよ。
シテ「なほも神慮を偽とや。さあらば彼の者きのふ我に手向けし言の葉の。上の句をかれに問ひ給へ。我また下の句をばつゞくべし。
ワキ「この上はとかく申すに及ばず。いかに汝真に歌を詠みたらば。その上の句を申すべし。
男「今は憚り申すに及ばず。かの音無の山陰に。さも美しき冬梅の。色殊なりしを何となく。心も染みてかくばかり。音無にかつ咲きそむる梅の花。
シテ「匂はざりせば誰か知るべきと。詠みしは疑なきものを。
地「もとより正直捨方便の誓。曇らぬ神慮。すぐなる故にかくばかり。納受あれば今ははや。疑はせ給はで歌人を。宥させ給ふべし。または心中に隠し歌も。神の通力と知るなれば。げに疑のあだ心。打ち解けこの縄を。とく/\許し給へや。

かくして使者のいましめをといてやった巫女は、和歌の功徳について語る。この部分は床机に腰掛けた居グゼである。

クリ「それ神は人の敬ふによつて威を増し。人は神の加護によれり。
シテサシ「されば楽む世に逢ふ事。これ又総持の義によれり。
地「言葉少うして理を含み。三難耳絶えて寂念閑静の床の上には。眠はるかに眼を去る。
クセ「これによつて。本有の霊光忽ちに照らし自性の月。漸く雲をさまれり。一首を詠ずれば。よろづの悪念を遠ざかり。天を得れば清く地を得れば
安しあらかじめ。唯有一実相唯一金剛とは説かずや。
シテ「されば天竺の。
地「婆羅門僧正は。行基菩薩の御手を取り。霊山の。釈迦の御もとに契りて真如朽ちせず逢ひ見つと詠歌あれば御返歌に。伽毘羅衛に契りし事のかひありて。文殊の御顔を。拝むなりと互に。仏々を現すも和歌の徳にあらずや。又神は出雲八重垣片そぎの寒き世のためしいはずとも伝へ聞きつべし。神のしめゆふ糸桜の風の解けとぞ思はるゝ。
ワキ詞「さあらば祝詞を参らせられ候ひて。神を上げ申され候へ。
シテ「謹上再拝。そも/\当山は。法性国の巽。金剛山の霊光。この地に飛んで霊地となり。今の大峰これなり。
地「されば御嶽は金剛界の曼荼羅。
シテ「華蔵世界。熊野は胎蔵界。
地「密厳浄土有難や。

神舞 ここでこの能の見せ場である優雅な舞が十数分続く。

地「不思議や祝詞の神子物狂。不思議や祝詞の神子物狂のさもあらたなる。飛行をいだして。神がたりするこそ。恐ろしけれ。
シテ「証誠殿は。阿弥陀如来。
地「十悪を導き。
シテ「五逆をあはれむ。
地「中の御前は。
シテ「薬師如来。
地「薬となって。
シテ「二世を助く。
地「一万文殊。
シテ「三世の覚母たり。
地「十万普賢。
シテ「満山護法。
地「数数の神々。かの覡につくも髪の。御幣も乱れて。空に飛ぶ鳥の。翔り/\て地に又踊り。数珠を揉み袖を振り。高足下足の。舞の手をつくし。これまでなりや。神はあがらせ給ふと云ひ捨つる。声の内より狂覚めて又本性にぞ。なりにける。

最後に憑依から醒めた巫女は、静かに去っていく。


    


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