日本語と日本文化


融:世阿弥の幽玄能(能、謡曲鑑賞)


能「融」は世阿弥の傑作の一つである。歴史上の人物源融が作ったという六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりを、しみじみと謡い語る。筋らしい筋はないが、月光を背景にして、静かに進行する舞台は、幽玄な能の一つの到達点をなしている。だがそれだけに、初めて能を見る人は退屈するかもしれない。

源融は、平安時代の初期、九世紀前半に生きた人である。嵯峨天皇の皇子で、後にその子孫から、渡辺綱ら嵯峨源氏の系統が起こっている。風雅な人物だったらしく、後に様々な伝説が生じた。源氏物語の主人公光源氏は、源融をモデルにしたとの説もある。

源融にかかわる逸話の中で最も名高いのは、京都六条河原なる邸宅の造営である。融はこの邸宅に、陸奥の絶景塩釜の風景をそっくり再現し、難波の海から汐水を汲んで来て池を満たした。能が題材とするのは、この院である。

源融の建てた宇治の邸宅は、後に平等院となる。融の死後公達がそこで宴を開いた際、融の幽霊が現れて嘆いたという伝説もあり、今昔物語などに取り上げられている。また、能「百萬」の舞台となった嵯峨の清涼寺も、融が建てた別邸の跡である。源融の墓は今も、清涼寺の境内にある。

六条河原院にまつわる話として、伊勢物語第八十一段に次のような一こまがある。

―むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。神無月のつごもりがた、菊の花うつろひざかりなるに、紅葉の千種に見ゆるおり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜酒飲みし遊びて、夜あけもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐをきな、板敷の下にはひありきて、人にみなよませはててよめる。
塩竈にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はこゝに寄らなん
となむよみけるは。みちの国にいきたりけるに、あやしくおもしろき所々多かりけり。わがみかど六十余国の中に、塩竈といふ所に似たるところなかりけり。さればなむ、かの翁さらにこゝをめでて、塩竈にいつか来にけむとよめりける。

左の大臣とは左大臣源融をさす。かたゐをきなは誰ということでもなく、話を面白くするために挿入された人物像だろうか。

世阿弥はこうした説話をも十分念頭に置いてはいただろうが、能を作るにあたっては、自分の創作を生かしたようである。前段では、塩釜の風景にまねて六条河原の院が作られたいわれを語り、後段では、融が幽霊となって現れ、昔の栄華をなつかしむという構成をとっている。

なお、この曲のキリの部分は、通夜の席で故人を偲ぶ際に、よく歌われてきた。

舞台にはまず、東国の僧が都へ向かうといって現れる。(以下、テキストは「半魚文庫」を活用。)

ワキ詞「これは東国方より出でたる僧にて候。我いまだ都を見ず候程に。此度思ひ立ち都に上り候。
下歌「おもひ立つ心ぞしるべ雲を分け。舟路をわたり山を越え。千里も同じ一足に。千里も同じ一足に。
上歌「夕を重ね朝毎の。宿の名残も重なりて。都に早く。着きにけり都に早く着きにけり。
詞「急ぎ候ふ程に。これは早都に着きて候。此あたりをば六条河原の院とやらん申し候。暫く休らひ一見せばやと思ひ候。

そこへ、笑翁の面をつけ、汐汲み用の桶を両天秤に担いだ老人が現れる。

シテ一セイ「月も早。出汐になりて塩釜の。うらさび渡る。気色かな。
サシ「陸奥はいづくはあれど塩釜の。うらみて渡る老が身の。よるべもいさや定なき。心も澄める水の面に。照る月並を数ふれば。今宵ぞ秋の最中なる。実にや移せば塩釜の。月も都の最中かな。
下歌「秋は半身は既に。老いかさなりてもろ白髪。
上歌「雪とのみ。積りぞ来ぬる年月の。積りぞ来ぬる年月の。春を迎へ秋を添へ。時雨るゝ松の。風までも我が身の上と汲みて知る。汐馴衣袖寒き。浦わの秋の夕かな浦わの。秋の夕かな。

翁の姿を不思議に思った僧は、海辺でもないのに何故汐を汲むのだと尋ねる。すると、翁は、ここ六条河原の院こそ、融の大臣が塩釜に似せて作ったところであり、自分がそこで汐を汲むのは不思議なことではないと答える。そして、かつての六条河原の院の様子などを話して聞かせる。

ワキ詞「如何にこれなる尉殿。御身は此あたりの人か。
シテ詞「さん候この処の汐汲にて候。
ワキ「不思議やこゝは海辺にてもなきに。汐汲とは誤りたるか尉殿。
シテ「あら何ともなや。さてこゝをば何処としろし召されて候ふぞ。
ワキ「この処をば六条河原の院とこそ承りて候へ。
シテ「河原の院こそ塩釜の浦候ふよ。融の大臣陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる海辺なれば。名に流れたる河原の院の。河水をも汲め池水をも汲め。こゝ塩釜の浦人なれば。汐汲となどおぼさぬぞや。
ワキ詞「実に/\陸奥の千賀の塩釜を。都の内に移されたる事承りおよびて候。さてはあれなるは籬が島候ふか。
シテ「さん候あれこそ籬が島候ふよ。融の大臣常は御舟を寄せられ。御酒宴の遊舞さまざまなりし所ぞかし。や。月こそ出でて候へ。
ワキ「実に/\日の出でて候ふぞや。あの籬が島の森の梢に。鳥の宿し囀りて。しもんに移る月影までも。孤舟に帰る身の上かと。思ひ出でられて候。
シテ詞「何と唯今の面前の景色が。御僧の御身に知らるゝとは。若しも賈島が言葉やらん。鳥は宿す池中の樹。
ワキ「僧は敲く月下の門。
シテ「推すも。
ワキ「敲くも。
シテ「古人の心。今目前の秋暮にあり。
地「実にやいにしへも。月には千賀の塩釜の。月には千賀の塩釜の。浦わの秋も半にて。松風も立つなりや霧の籬の島隠れ。いざ我も立ち渡り。昔の跡を。陸奥の。千賀の浦わを。眺めんや千賀の浦わを詠めん。

翁は更に、融の死後相続するものもなく、院が荒れ果てていくのを嘆くとともに、かつての栄華を回想する。

ワキ詞「塩釜の浦を都に移されたる謂御物語り候へ。
シテ詞「嵯峨の天皇の御宇に。融の大臣陸奥の千賀の塩釜の眺望を聞し召し及ばせ給ひ。この処に塩釜を移し。あの難波の御津の浦よりも。日毎に潮を汲ませ。こゝにて塩を焼かせつゝ。一生御遊の便とし給ふ。然れどもその後は相続して翫ぶ人もなければ。浦はそのまゝ干汐となつて。地辺に淀む溜水は。雨の残の古き江に。落葉散り浮く松蔭の。月だに澄まで秋風の。音のみ残るばかりなり。されば歌にも。君まさで煙絶えにし塩釜の。うらさびしくも見え渡るかなと。貫之も詠めて候。
地「実にや眺むれば。月のみ満てる塩釜の。浦さびしくも荒れはつる跡の世までもしほじみて。老の波も帰るやらん。あら昔恋しや。
地歌「恋しや恋しやと。したへども歎けども。かひも渚の浦千鳥音をのみ。鳴くばかりなり音をのみ鳴くばかりなり。

二人のやり取りは続き、六条河原の院からその周辺の名所へと話題が及ぶ。名所尽くしは「田村」や「熊野」などほかの能にも見られ、能の特徴の一つにもなっている。この時代にあっては、京都の名所を観客に語って聞かせる意味もあったようで、観客サービスの一つのあり方だったらしい。

ワキ詞「如何に尉殿。見え渡りたる山々は皆名所にてぞ候ふらん御教へ候へ。
シテ詞「さん候皆名所にて候。御尋ね候へ教へ申し候ふべし。
ワキ「先あれに見えたるは音羽山候ふか。
シテ「さん候あれこそ音羽山候ふよ。
ワキ「音羽山音に聞きつゝ逢坂の。関のこなたにとよみたれば。逢坂山も程近うこそ候ふらめ。
シテ「仰の如く関のこなたにとはよみたれども。あなたにあたれば逢坂の。山は音羽の峯に隠れて。此辺よりは見えぬなり。
ワキ「さて/\音羽の嶺つゞき。次第々々の山並の。名所々々を語り給へ。
シテ詞「語りも尽さじ言の葉の。歌の中山清閑寺。今熊野とはあれぞかし。
ワキ「さてその末につゞきたる。里一村の森の木立。
シテ詞「それをしるべに御覧ぜよ。まだき時雨の秋なれば。紅葉も青き稲荷山。
ワキ「風も暮れ行く雲の端の。梢も青き秋の色。
シテ詞「今こそ秋よ名にしおふ。春は花見し藤の森。
ワキ「緑の空もかげ青き野山につゞく里は如何に。
シテ「あれこそ夕されば。
ワキ「野辺の秋風
シテ「身にしみて。ワキ「鶉鳴くなる。
シテ「深草山よ。
地「木幡山伏見の竹田淀鳥羽も見えたりや。
ロンギ地「眺めやる。其方の空は白雲の。はや暮れ初むる遠山の。嶺も木深く見えたるは。如何なる所なるらん。
シテ「あれこそ大原や。小塩の山も今日こそは。御覧じ初めつらめ。なほ/\問はせ給へや。
地「聞くにつけても秋の風。吹く方なれや峰つゞき。西に見ゆるは何処ぞ。
シテ「秋も早。秋も早。半更け行く松の尾の嵐山も見えたり
地「嵐更け行く秋の夜の。空澄み上る月影に。
シテ「さす汐時もはや過ぎて。
地「隙もおし照る月にめで。
シテ「興に乗じて。
地「身をば実に。忘れたり秋の夜の。長物語よしなやまづいざや汐を汲まんとて。持つや田子の浦。東からげの汐衣。汲めば月をも袖にもち汐の。汀に帰る波の夜の。老人と見えつるが。汐雲にかきまぎれて跡も見えず。なりにけり跡をも見せずなりにけり。

(中入間)老人が月光の彼方に消えた後、間狂言が入る。狂言は、六条河原の院のいわれをひととおり語った後、僧に向かって読経をすすめるが、僧は読経をするでもなく、夢にまどろみながら、その続きを見たいと願う。

後段のシテは前段とは打って変わり、中将面をつけた若者の颯爽とした姿で現れる。そして、若き頃の融を再現して、謡いかつ舞う。このコントラストが、一曲に変化をもたらしているところだ。

ワキ待謡「磯枕。苔の衣を片敷きて。苔の衣を片敷きて。岩根の床に夜もすがら。猶も奇特を見るやとて。夢待ちがほの。旅寐かな。夢待ちがほの旅寐かな。
後シテ出端「忘れて年を経し物を。又いにしへに帰る波の。満つ塩釜の浦人の。今宵の月を陸奥の。千賀の浦わも遠き世に。其名を残すまうちきみ。融の大臣とは我が事なり。我塩釜の浦に心を寄せ。あの籬が島の松蔭に。明月に舟を浮べ。月宮殿の白衣の袖も。三五夜中の新月の色。千重ふるや。雪を廻らす雲の袖。
地「さすや桂の枝々に。
シテ「光を花と。散らす粧。
地「ここにも名に立つ白河の波の。
シテ「あら面白や曲水の盃。
地「浮けたり浮けたり遊舞の袖。

(早舞)

ロンギ地「あら面白の遊楽や。そも明月の其中に。まだ初月の宵々に。影も姿も少なきは。如何なる謂なるらん。
シテ「それは西岫に。入日のいまだ近ければ。其影に隠さるゝ。たとへば月の有る夜は星の薄きが如くなり。
地「青陽の春の初には。
シテ「霞む夕の遠山。
地「黛の色に三日月の。
シテ「影を舟にも譬へたり。
地「又水中の遊魚は。
シテ「釣と疑ふ。
地「雲上の飛鳥は。
シテ「弓の影とも驚く。
地「一輪も降らず。
シテ「万水も昇らず。
地「鳥は。地辺の樹に宿し。
シテ「魚は月下の波に伏す。
地「聞くとも飽かじ秋の夜の。
シテ「鳥も鳴き。
地「鐘も聞えて
シテ「月も早。
地「影傾きて明方の。雲となり雨となる。此光陰に誘はれて。月の都に。入り給ふ粧。あら名残惜しの面影や名残惜しの面影。

最後に、シテは月光に誘われるように退場する。この部分が、人のこの世からの退場を連想させるものであったためか、通夜の席でうたわれることともなった。

筆者はかねて謡曲を趣味にし、数十人の仲間たちとサークル活動のようなことをしてきた。謡曲をたしなむ者には年配者が多いから、長い付き合いのうちには、亡くなる人もある。そんな折、我々は申し合わせて通夜の席を訪ね、遺族や僧侶の了解を得た上で、故人のためにこの曲をささげるのである。

或る時、筆者のとりわけ親しくしていた人が亡くなった。面倒見のよい男で、サークルの世話焼きのようなことをしてくれていたが、比較的若くして亡くなった。自分の死の半年ほど前に会員が死んだときには、我々とともにこの曲を謡い、かつ告別の文をものしたりもしたのだったが、まさかその男が、こんなにも早く亡くなるとは、我々にも信じがたかった。

その彼の死を見舞った通夜の席上でも、我々は祭壇の前に数列に並び、融のキリの一節を謡ったのだった。

―この光陰に誘はれて、月の都に入り給ふ装、あら、名残惜しの面影や、名残惜しの面影


    


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