日本語と日本文化


能「正尊」:起請文


能「正尊」は、「安宅」の勧進帳、「木曽」の願書とともに三読物といわれる。頼朝から義経討伐の密命を受けて京にやってきた土佐坊正尊が、かえって弁慶によって義経の前に引きだされる。そこでとっさの機転で起請文を書きあげ、それを義経主従一同の前で読み上げるというものだ。

作者は、「安宅」や「船弁慶」を作った観世小次郎信光の子観世弥次郎長俊。話の大筋は平家物語に基づかせながら、起請文を読む場面は自分の工夫で取り入れた。安宅同様、直面の現在能で、ドラマチックな展開を持ち味とする点では、世阿弥的な幽玄能の対極に位置する。

全編のハイライトは、起請文を読み上げるシーン。観世流などでは、この起請文は正尊自ら読むということになっているのに対し、金剛流ばかりは正尊に代って弁慶に読ませている。どちらの場合にも、起請文を読む者がシテという位置づけだ。いづれにせよ、鼓のリズムに合わせて抑揚に富んだ読み方をするのが見どころ、聞きどころだ。

義経・弁慶をテーマにした能は数多くあるが、それらの殆どは、義経や弁慶の機転を称えるのが眼目となっている。ところがこの能ばかりは、弁慶や義経の敵を主人公にしているという点で、変わり種の作品といえる。

ここでは、先日NHKが放映した金剛流の能を紹介する。シテ(弁慶)は金剛永勤、ツレ(正尊)は豊島三千春。この曲にはワキは登場しない。

まず、弁慶、義経、静(子方)等が現れ、弁慶が口上を述べる。(以下、テクストは半魚文庫を活用:テクストでは、正尊がシテ、弁慶がワキ、義経はワキツレになっている)

口上の中で弁慶は、正尊が討手として差し向けられていることに言及する。

ワキ詞「是は西塔の武蔵坊弁慶にて候。さても我が君判官殿は。鎌倉殿より大名十人付け申され候へども。内々御中不和になり給ふにより。心を合はせて一人づつ皆下りはてゝ候。さても去年の正月木曽義仲追討せしよりこの方。度々平家を攻め落し。此春亡ぼし果てゝ候。一天を静め四海を澄ます勤賞行はるべき所に。渡辺にて梶原が逆艪の意見を承引し給はざりし遺恨により。我が君を讒奏申し。御兄弟の御中不仲になり給ひて候。又鎌倉より土佐正尊と申す者。昨日都へ上つて候ふが。是は我が君を狙ひ申さんためと聞しめされ。急ぎ召し連れて参れとの御諚にて候ふ程に。只今土佐が旅宿へと急ぎ候。いかに案内申し候。判官殿より御使に武蔵が参じて候。正尊はこの屋の内に御入り候か。

弁慶が橋掛かりから呼びかけると、揚幕の奥から正尊が現れる。その正尊に向かって弁慶が、義経のもとに参上するように急き立てる。不意を突かれた形の正尊は、色々言い訳をいった挙句、無防備のまま同行することになる。

シテ詞「武蔵殿かやあら珍しや。まづ此方へ御入り候へ。
ワキ「承り候。まづ以て御上めでたう候。これは君よりの御使にて候。上洛のよし聞しめし及ばれ。何とて御伺候は候はぬぞ。鎌倉殿の御意も聞しめされたく候ふ間。急いで御参あれとの御事にて候。
シテ「さん候宿願の子細候ひて。熊野参詣のためにふと罷り上りて候。昨日京着仕り候へども。路次より違例仕り散々の事にて候ふ程に。今まで遅なはり申して候。
ワキ「委細承り候。仰はさる事なれども。唯今御供申せとの御事にて候。
シテ「畏つては候へども。今少し養生を加へ。必ず伺候申し候ふべし。
ワキ「いや/\片時も早く国の御事をば聞しめされたく思し召せば。ただ/\御供申さんと。
シテ「是非をいはせぬ武蔵殿に。
ワキ「さしも剛なる。
シテ「土佐坊も。
地「否にはあらず稲舟の。否にはあらず稲舟の。上れば下る事もいさ。あらましごとも徒に。なるともよしや露の身の。消えて名のみを残さばや。消えて名のみを残さばや。

引きだされた正尊に向かって義経が本意を正す。自分たちを撃ちにさし向けられたのであろうと。それに対して正尊はのらりくらりと応える。

ワキ詞「畏つて候。こなたへ参られ候へ。
判官「如何に土佐坊珍しや。さて何のために上りてあるぞ。鎌倉殿より御文はなきか。
シテ「さん候さしたる御事も御座なく候ふ間。御文は参らず候。詞に申せと候ひしは。都に別の子細なく候ふ事。偏に御渡り候ふ故と思しめし候。かまへてよく守護させ給へとこそ御諚候ひつれ。
判官「よもさはあらじ。義経討ちに上りたる御使とこそ覚えたれ。
ワキ「御諚の如く。大名共をさし上せられ候はゞ瀬田の橋をも引き。都鄙の騒となつてはあしかりなんと思しめし。土佐坊上つて物詣するやうにて。たばかつて討ち申せとこそ仰せ付けられ候ひつらめ。和僧に於てはこの法師。手なみの程を見すべきなり。

義経主従の追及の激しさに、さしもの正尊も辟易とし、身の証しとして起請文を書こうと言い出す。

シテ「あら勿体なや。たとひ人の讒言により。君こそ仰せ出さるゝとも。さすがに武略の武蔵殿。さはあるまじきと申されてこそ。御兄弟の御中に。ものいひさがなき事あるまじけれ。まづ静まつて事のわけを。委しく聞き給へ武蔵坊。これは御諚にて候へども。何によつて唯今さる御事の候ふべき。聊宿願の事の候ふ間。熊野参詣の為に罷り上りて候。
判官「梶原が讒奏により。義経を鎌倉へも入れられず。道より追ひ帰されし事はいかに。
シテ「その事はいかゞ御座候ふやらん。身に於ては全く緩怠あらざる趣。起請文に書き表し。唯今御目に懸くべしと。
地上歌「当座の席を遁れんと。土佐は聞ゆる文者にて。自筆に是を書き付け。弁慶にこそは渡しけれ。

ここで、シテによる起請文の読み上げがある。テクストでは正尊がそのまま読むことになっているが、放映された金剛流の能では、弁慶が正尊から手渡されて読む。その読み方には独特のリズムがある。

シテ起請文「敬つて申す起請文の事。上は梵天帝釈。四大天王閻魔法王五道の冥官泰山府君。下界の地には。伊勢天照大神を始め奉り伊豆箱根。富士浅間。熊野三所金嶺山。王城の鎮守稲荷祇園賀茂貴船。八幡三所。松の尾平野。総じて日本国の大小の神祇冥道講じ驚かし奉る。殊には氏の神。全く正尊討手に罷り上る事なし。この事偽これあらば。この誓言の御罰を中り。来世は阿鼻に堕罪せられんものなり仍つて。起請文かくの如し文治元年九月日。正尊と読み上げたるは。身の毛もよだちて書いたりけり。
地「もとより虚言とは思へども。文を揮うて書いたる。器用を感じ思しめし。御盃を下さるゝ。折節御前に。磯の禅師が娘に。静と云へる白拍子。今様を謡ひつゝ。お酌に立ちて花かづら。かゝる姿ぞたぐひなき。舞の袖。

(中ノ舞三段)ここで子方の静御前による中の舞が披露される。

子方静「君が代は。千代に一度ゐるちりの。
地「白雲かゝる山となるまで。山となるまで山となるまで。
静「変らぬ契りを頼むなかの。
地「変らぬ契りを頼むなかの。隔てぬ心は神ぞ知るらんよく/\申せと静に諫められ。土佐坊御前を罷り帰れば。君も御寝所に入らせ給へば。おの/\退出申しけり。

中入後、正尊の一行が態勢を整えて攻めてくる。それを弁慶以下義経主従が迎え撃つこととなる。

ワキ詞「如何に申し上げ候。唯今土佐が宿所を見せに遣はし候ふ所に。幕の内には矢を負ひ弓を張り。兵ども皆武具をし。唯今打つ立つ気色見えて。更に物詣の気色は見えぬ由申し候。
判官殿「固より覚悟の前なれば。何程の事のあるべきぞと。
ワキ「そのまゝやがて御座を立ち。
静「静は着背長まゐらする。
地「義経之を召されつつ。義経之を召されつつ。御佩刀を取つてしづ/\と。中門の廊に出で給ひ。門を開かせ諸共に。寄せ来る勢を待ち給ふ。寄せ来る勢を待ち給ふ。

ツレ物着:義経一行は戦いの支度をして、相手を迎える。

シテ立衆一セイ「白浪と。よそにや聞かんわたづみの。深き心はある物を。
シテ詞「その時正尊駒しづ/\と打ち寄せて。大音上げて名乗るやる。そもそもこれは鎌倉殿の御使。土佐坊正尊とは我が事なり。九郎太夫判官殿の。討手の大将たまはつたり。とうとう御腹めされよと。大音上げてぞ呼ばはりける。地「味方の勢は之を見て。味方の勢は之を見て。あの土佐坊を打ち取らんと。われも/\と進む中に。江田の源三熊井太郎。弁慶を先として。門外に切つて出づれば。寄手の兵渡り合ひ。をめき叫んで戦ふたり。

敵味方乱れて戦ううちに、義経軍が優勢となり、敵方を次々と打ち倒す。

ワキ詞「その時弁慶表に進み。いかに土佐坊たしかに聞け。さても書きつる虚起請の。罰を忽ち与ふべし。いざ一太刀と呼ばはれば。
ツレ姉和「大将討たせて叶はじと。好む打物ひつさげて。弁慶を目懸けて懸りければ。
ワキ「天晴器量の仁体かな。さて汝は誰そと尋ぬれば。
姉和「ものその物にあらねども。正尊が内に名を得たる。陸奥の国の住人に。姉和の平次光景なりと。大音上げてぞ名乗りける。

最期に義経と弁慶とで正尊を打ち据え、ぐるぐる巻きに縛り上げる。

ワキ詞「げにゆゝしくも名のるものかな。さては汝は土佐が郎等。われには不足の者なれども。志をば報ぜんと。
地「薙刀やがて取り直し。薙刀やがて取り直し。無慙や汝。手にかけんと。こむ薙刀を打ちはらひ。受け流せば又とり直し。ちやうと打てば。はつたと合はせ。重ねて打つに。打ち込まれて。何かはたまらん唐竹割に二つになつてぞ失せにける。正尊これを見るよりも。正尊これを見るよりも。むねとも郎等数輩討たせて。今は適はじと馬よりおり立ち。乱れ入るを。義経打物とり直し給ひ。すきまを有らせず戦ひ給へば静も諸共に切り払ひ切り払ふ正尊適はじと引き立ちけるを。弁慶追つ詰め戦ひけるが。押しならべむずと組みえいやと投げ伏せ大勢取り込め縄打ち懸けて。悦び勇み囚人を引かせ。御門の内にぞ入り給ふ。

かくして討手の正尊勢を倒した義経主従はひと時の勝利を味わうのだが、それがいつまでも続かないことは、歴史の厳然と物語るとおりだ。






  
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