日本語と日本文化
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砧:能のフランス公演から





NHKが先日(4月28日)、能のフランス公演を中継していた。出しものは観世流の能「砧」で、シテは浅見真州である。浅見真州は国際的な活躍で知られていて、その功績でフランス芸術勲章をもらっているそうだから、フランスとは縁が深いのだろう。そのフランスと能とのかかわりでいえば、かつての在日フランス大使ポール・クローデルが、能を見て死ぬほど退屈したと言ったことがある。その時にクローデルが見たのは「熊野」だったということだが、「熊野」といえば日本人に最も人気のある曲で、それを芸術家を自認していたクローデルが楽しめないのでは、能が国際的な受容を期待するのは無理かとも言われたものだ。

浅見がフランス公演で演じた「砧」は、世阿弥の作品だが、「熊野」よりいっそう劇的要素が少ない。夫に見捨てられた形の妻が、前半では夫の使いに恨みつらみを述べるだけで、後半ではやっと戻ってきた夫に向って幽霊として現われ、あらためて恨みつらみを述べるというもので、劇的な要素は全くないと言ってよい。そんなものを、演劇にはうるさいと言われるフランス人が果たして楽しめるものなのか、やや不安になるところだが、その不安は杞憂だったようにも見える。

というのも、この能を見たフランス人たちの反応は好意的なものだったからだ。仮面が生きている人間のように表情豊かだったとか、役者の身体演技が様式的で美しかったとか、コーラスの迫力がすごかったとか、一応積極的な評価の言葉が幾人かから出てきたが、それらはみな能の外形にかかわるものばかりで、能の本質に迫ったものではなかった。能の本質は、やはり言葉なしでは語れないもので、それゆえ我々は謡曲という形で、言葉だけでも十分楽しめるのであるが、その言葉はフランス人にはわかりようもないから、かれらは能の魅力の半分も味わったことにはなりそうもない。

もっとも能の魅力を十分に堪能している人間は、日本人の中でもそう多くはいない。若い人などは能を見たことのないのがほとんどだろうと思う。今頃能舞台に足を運ぶのは、小生のような老人ばかりだ。そんなこともあって、かつては頻繁に能番組を取り上げていたNHKも、最近ではめったに放送しなくなったのは残念なことである。そんな能でも、海外で成功したとあっては、やはり話題として取り上げた方がよろしいとの判断になったのだろう。わざわざフランスまで出向いて行って、浅見真州らの演じる能の舞台を日本人にも見せてやりたいというわけであろう。

そんなわけで、小生のような能好きは、フランス人の相伴にあずかるかたちで、能番組を一つ余計に楽しむことができたというわけだ。ここでは、その能番組の様子を紹介したい。能舞台は、パリにあるかなり大きな劇場の舞台の上に、架設されていた。仮設とはいっても、一応本物を再現した形だ。ただ、舞台背景の松の模様は、フランス人にもわかりやすいように、華やかな感じに描かれていた。これを描いたのは誰か知らないが、なかなかのセンスを感じさせた。

舞台前面には、砧の作り物があらかじめ据えられている。そこに九州芦谷の何某を名乗るワキがあらわれて、妻を残して都に出て来た経緯を語り、三年たって妻の様子が気がかりだから、召し使う女夕霧を遣わすことにした次第が述べられる。(以下テクストは「半魚文庫」を活用)

ワキ詞「これは九州芦屋の何某にて候。われ自訴の事あるにより在京仕りて候。かりそめの在京と存じ候へども。当年三とせになりて候。余りに故郷の事心もとなく候ふ程に。召使ひ候ふ夕霧と申す女を下さばやと思ひ候。いかに夕霧。余りに古里心もとなく候ふ程に。おことを下し候ふべし。此年の暮には必ず下るべき由心得て申し候へ。
ツレ「さらばやがて下り候ふべし。必ず此年の暮には御下りあらうずるにて候。
道行「此程の。旅の衣の日も添ひて。旅の衣の日も添ひて。幾夕暮の宿ならん。夢も数そふ仮枕。明し暮して程もなく。芦屋の里に着きにけり。芦屋の里に着きにけり。
詞「急ぎ候ふ程に。芦屋の里に着きて候。やがて案内を申さうずるにて候。いかに誰か御入り候。都より夕霧が参りたるよし御申し候へ。
シテサシ、アシラヒ出「それ鴛鴦の衾の下には。立ち去る思を悲しみ。比目の枕の上には。波を隔つる愁あり。ましてや深き妹背の中。同じ世をだに忍草。われは忘れぬ音を泣きて。袖に余れる涙の雨の。晴間稀なる心かな。
ツレ詞「夕霧が参りたる由それ/\御申し候へ。
シテ「何夕霧と申すか。人までもあるまじ此方へ来り候へ。いかに夕霧珍しながら怨めしや。人こそ変り果て給ふとも。風の行方の便にも。などや音信なかりけるぞ。
ツレ「さん候とくにも参りたくは候ひつれども。御宮づかひの隙もなくて。心より外に三年まで。都にこそは候ひしか。
シテ「何都住まひを心の外とや。思ひやれげには都の花盛。慰多きをり/\にだに。憂きは心の習ぞかし。
下歌「鄙の住まひに秋の暮。人目も草も枯れがれの。契も絶えはてぬ何を頼まん身のゆくへ。
上歌「三年の秋の夢ならば。三年の秋の夢ならば。憂きはそのまゝ覚めもせで。おもひでは身に残り昔は変り跡もなし。げにや偽の。なき世なりせばいかばかり。人の言の葉嬉しからん。愚の心やな。愚なりけるたのみかな。

夕霧から夫の様子を聞かされ、三年も待たされた怨みが沸き上がってくる妻であるが、なぜかその妻が砧の音に心を取られる。それには大した必然性が見られぬのだが、そこは世阿弥一流の細工で、砧の音を通じて、日本人にもなじみ深い蘓武の故事をほのめかしているのである。蘓武の故事は、砧の音を通じて別れ別れになった妻を思い出すのであるが、ここでは妻のほうが砧の音を通じて夫を思い出すのである。

シテ詞「あら不思議や。何やらんあなたに当つて物音の聞え候。あれは何にて候ふぞ。
ツレ詞「あれは里人の砧打つ音にて候。
シテ「げにや我が身の憂きまゝに。古事の思ひ出でられ候ふぞや。唐土に蘇武といひし人。胡国とやらんに捨て置かれしに。古里に留め置きし妻や子。夜寒の寝覚を思ひけり。高楼に登つて砧をうつ。志の末通りけるか。万里の外なる蘇武が旅寝に。古里の砧聞えしとなり。わらはも思や慰むと。とても寂しき呉服。あやの衣を砧にうちて。心を慰まばやと思ひ候。
ツレ詞「いや砧などは賎しき者の業にてこそ候へ。さりながら御心慰めんためにて候はゞ。砧をこしらへて参らせ候ふべし。
シテ「いざ/\砧うたんとて。馴れて臥ゐの床の上。
ツレ「涙かたしく小莚に。
シテ「思をのぶる便ぞと。
ツレ「夕霧立ちより諸共に。
シテ「怨の砧。
ツレ「うつとかや。
地次第「衣に落つる松の声。衣に落ちて松の声夜寒を風や知らすらん。
シテ「音信の。稀なる中の秋風に。
地「憂きを知らする。夕かな。
シテ「遠里人も眺むらん。
地「誰が世と月は。よも問はじ。
シテ「面白のをりからや。頃しも秋の夕つ方。
地「牡鹿の声も心凄く。見ぬ山里を送り来て。梢はいづれ一葉散る。空冷まじき月影の軒の忍にうつろひて。
シテ「露の玉簾。かゝる身の。
地「思をのぶる。夜すがらかな。宮漏高く立ちて。風北にめぐり。
シテ「隣砧緩く急にして月西に流る。
地「蘇武が旅寝は北の国。これは東の空なれば。西より来る秋の風の。吹き送れと間遠の衣擣たうよ。

夕霧は、夫はもうすぐ戻ると伝えるのだが、追って別の使いが来て、夫はいましばらく戻れなくなったと伝える。その言葉を聞いた妻は、絶望して死んでしまうのである。

上「古里の。軒端の松も心せよ。おのが枝々に。嵐の音を残すなよ。今の砧の声添へて。君がそなたに吹けや風。余りに吹きて松風よ。我が心。通ひて人に見ゆならば。その夢を破るな破れて後は此衣たれか来ても訪ふべき来て訪ふならばいつまでも。衣は裁ちもかへなん。夏衣薄き契はいまはしや。君が命は長き夜の。月にはとても寝られぬにいざいざ衣うたうよ。かの七夕の契には。一夜ばかりの狩衣。天の河波立ち隔て。逢瀬かひなき浮舟の。梶の葉もろき露涙。二つの袖やしをるらん。水蔭草ならば。波うち寄せようたかた。
シテ「文月七日の暁や。
地「八月九月。げに正に長き夜。千声万声の憂きを人に知らせばや。月の色風の気色。影に置く霜までも。心凄きをりふしに。砧の音夜嵐悲の声虫の音。交りて落つる露涙。ほろ/\はら/\はらと。いづれ砧の音やらん。
ツレ詞「いかに申し候。都より人の参りて候ふが。此年の暮にも御下あるまじきにて候。
クドキシテ「怨めしやせめては年の暮をこそ。偽ながらも待ちつるに。さては早真に変り果て給ふぞや。
地「思はじと思ふ心も弱るかな。声も枯野の虫の音の。乱るゝ草の花心。風狂じたる心地して。病の床に伏し沈み。遂に空しくなりにけり。遂に空しくなりにけり。

中入では間狂言が、これまでの経緯を反復する形で語る。その語りを受けて、夫が都から妻のもとへと戻って来る。その夫の前に死んだ妻の亡霊が現れ、自分を捨てた夫に恨みつらみを述べるというわけである。

ワキ詞「無慙やな三とせ過ぎぬる事を怨み。引きわかれにし妻琴の。つひの別となりけるぞや。
上歌待謡「さきだたぬ。悔の八千度百夜草。悔の八千度百夜草の。蔭よりも二度。帰りくる道と聞くからに。梓の弓の末弭に。詞をかはすあはれさよ。詞をかはすあはれさよ。
後シテ出端「三瀬川沈み。果てにし。うたかたの。哀はかなき身の行くへかな。標梅花の光を並べては。娑婆の春をあらはし。
地「跡のしるべの燈火は。
シテ「真如の秋の。月を見する。さりながらわれは邪婬の業深き。思の煙の立居だに。やすからざりし報の罪の。乱るゝ心のいとせめて。獄卒阿防羅刹の。笞の数の隙もなく。うてや/\と。報の砧。怨めしかりける。因果の妄執。
地「因果の妄執の思の涙。砧にかゝれば。涙はかへつて。火焔となつて。胸の煙の焔にむせべば。叫べど声が出でばこそ。砧も音なく。松風も聞えず。呵責の声のみ。恐ろしや。
上歌「羊のあゆみ隙の駒。羊のあゆみ隙の駒。うつりゆくなる六つの道。因果の小車の火宅の門を出でざれば。廻り廻れども。生死の海は離るまじやあぢきなの憂世や。
シテ「怨は葛の葉の。
地「怨は葛の葉の。かへりかねて執心の面影の。はづかしや思ひ夫の。二世と契りてもなほ。末の松山千代までと。かけし頼はあだ波の。あらよしなや空言や。そもかゝる人の心か。
シテ「烏てふ。おほをそ鳥も心して。
地「うつし人とは誰かいふ。草木も時を知り。鳥獣も心あるや。げにまことたとへつる。蘇武は旅雁に文をつけ。万里の南国に至りしも。契の深き志。浅からざりしゆゑぞかし。君いかなれば旅枕夜寒の衣うつゝとも。夢ともせめてなど思ひ知らずや怨めしや。
キリ「法華読誦の力にて。法華読誦の力にて。幽霊まさに成仏の。道明かになりにけり。これも思へばかりそめに。うちし砧の声のうち。開くる法の華心。菩提の種となりにけり。提の種となりにけり。

能に出て来る亡霊は、だいたいが最後には僧侶の読経に慰められて成仏するのであるが、この能には僧侶は出てこず、したがってめでたく成仏というわけにはいかない。ただ、今は老婆の姿となった妻は、いつまで恨みつらみを言っても仕方がないというふうな具合に、なんとなく成仏してしまうのである。



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