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倶利迦羅落:平家物語巻第七



(平家物語絵巻から 倶利迦羅落)

義経以前に源氏側の戦上手として登場した義仲の、最初の桧舞台となるのが倶利迦羅峠の戦いである。平家が義仲追討のために遣わした七万の大軍と、越中・加賀の国境倶利迦羅峠であいまみゆる事態となった義仲は、数の不利を知略で補って、みごと平家軍を撃退する。

平家は、倶利迦羅峠に七万の軍を集結させる。それと面と向かって戦っては勝てないと見込んだ義仲は一計を労する。軍を分散させて、平家軍を取り囲むように配置した上で、一気に襲い掛かろうとする先方である。さしもの大軍も、三方から一斉にかかられては、総崩れになるだろうという計算があった。

平家と対面する正面軍が、平家との間で弓あわせをしている間に、軍の一部を移動させて、敵の背後及び側面に配置し、平家軍を三方から囲む形にする。その上で一気に襲い掛かろうという計略である。

義仲の計略を知らない平家は、のんびりと矢あわせをしているうちに、危機が身に迫っているのに気づかない。気づいたときには既に遅しで、平家軍は、三方からあがった義仲軍の鬨の声にパニックになり、一斉に傍らの谷に追い落とされる。かくて戦いはあっけなく終わり、平家軍は大敗した。


~さる程に、源平両方陣をあはす。陣のあはひわづかに三町ばかりに寄せあはせたり。源氏もすすまず、平家もすすまず。勢兵十五騎、楯の面にすすませて、十五騎が上矢の鏑を平家の陣へぞ射入れたる。平家又はかり事共しらず、十五騎を出いて、十五の鏑を射返す。源氏卅騎を出いて射さすれば、平家卅騎を出いて卅の鏑を射返す。五十騎を出せば五十騎を出しあはせ、百騎を出せば百騎を出しあはせ、両方百騎づつ陣の面にすすんだり。互に勝負をせんとはやりけれども、源氏の方より制して勝負をせさせず。源氏は加様にして日をくらし、平家の大勢を倶利伽羅が谷へ追ひ落さうどたばかりけるを、すこしもさとらずして、ともにあひしらひ日を暮すこそはかなけれ。

~次第に暗うなりければ、北南よりまはッつる搦手の勢一万余騎、倶利伽羅の堂の辺にまはりあひ、えびらのほうだて打ちたたき、時をどッとぞつくりける。平家うしろをかへり見ければ、白旗雲のごとく差し上げたり。「此山は四方巖石であんなれば、搦手よもまはらじと思ひつるに、こはいかに」とて騒ぎあへり。さる程に、木曾殿大手より時の声をぞ合せ給ふ。松長の柳原、ぐみの木林に一万余騎ひかへたりける勢も、今井四郎が六千余騎で日埜宮林にありけるも、同じく時をぞつくりける。前後四万騎が喚く声、山も河もただ一度にくづるるとこそ聞えけれ。案のごとく、平家、次第にくらうはなる、前後より敵は攻め来る、「きたなしや、かへせかへせ」といふやから多かりけれ共、大勢の傾きたちぬるは、左右なうとッて返す事かたければ、倶梨迦羅)が谷へわれ先にとぞ落しける。まッさきにすすんだる者が見えねば、「此谷の底に道のあるにこそ」とて、親落せば子も落し、兄落せば弟もつづく。主落せば家子郎等落しけり。馬には人、人には馬、落ちかさなり落ちかさなり、さばかり深き谷一ツを平家の勢七万余騎でぞうめたりける。巖泉血をながし、死骸岳をなせり。さればその谷のほとりには、矢の穴刀の疵残りて今にありとぞ承はる。


以下は、敗軍の運命を淡々と記す。平家の主だった武将の多くが戦死し、七万を数えた平家軍は、二千騎になって加賀へ退却する。


~平家の方にはむねと頼まれたりける上総大夫判官忠綱・飛彈大夫判官景高・河内の判官秀国も此谷にうづもれてうせにけり。備中国の住人瀬尾の太郎兼康といふ聞ゆる大力も、そこにて加賀国の住人蔵光次郎成澄が手にかかッて、生捕にせらる。越前国火打が城にてかへり忠したりける平泉寺の長吏斎明威儀師もとらはれぬ。木曾殿、「あまりにくきに、其法師をばまづきれ」とてきられにけり。平氏大将維盛・通盛、稀有の命生きて加賀国へ引退く。七万余騎がなかよりわづかに二千余騎ぞのがれたりける。



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