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富士川:平家物語巻第五



(平家物語絵巻より 富士川)

頼朝の挙兵に対して、平家は、惟盛を総司令官、忠度を副司令官とする追討軍を向けることとした。惟盛の出陣姿はあでやかに美しく、一方忠度は愛人と別れの歌を読み交した。このように表現することで、平家方の武将が、公家にかぶれて武士らしさを失っていることを揶揄しているのだろう。

平家方は三万騎で都を出発し、途中諸国で見方を加え、七万余騎となって富士川に到着した。一方頼朝は二十万騎の軍勢で黄瀬川に到着した。

惟盛は、東国の案内者として同行させた斎藤実盛に、東国武士の気質や戦いぶりに着いて問いただしたところ、実盛は、東国武者は自分などは及ばないほどの武者ぞろいであり、また親子の死骸を乗り越えてでも戦う非情さを持っていると答えたので、平家方は恐れおののいたのであった。


~又大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛をめして、「やや実盛、なんぢ程のつよ弓勢兵、八ケ国にいか程あるぞ」と問ひ給へば、斎藤別当あざ笑つて申しけるは、「さ候へば、君は実盛を大矢と思召し候歟。わづかに十三束こそ仕候へ。実盛程射候物は、八ケ国にいくらも候。大矢と申す定の物の、十五束におとッて引くは候はず。弓のつよさもしたたかなる物五六人して張り候。かかる精兵どもが射候へば、鎧の二三両をもかさねて、たやすう射通し候也。大名一人と申すは、勢のすくない定、五百騎におとるは候はず。馬乗つつれば落つる道をしらず、悪所を馳すれども馬を倒さず。いくさは又親もうたれよ、子もうたれよ、死ぬれば乗越へ乗越へ戦ふ候。西国のいくさと申すは、親う討たれぬれば孝養し、忌あけてよせ、子うたれぬれば、その思ひ歎きに寄せ候はず。兵粮米つきぬれば、田つくり、刈り収めてよせ、夏は暑しといひ、冬はさむしと嫌ひ候。東国にはすべて其儀候はず。甲斐・信濃の源氏ども、案内は知つて候。富士の腰より搦手にや廻り候らん。かう申せば君を臆せさせ参らせんとて申すには候はず。いくさは勢にはよらず、はかり事によるとこそ申しつたへて候へ。実盛今度のいくさに、命生きてふたたび都へ参るべしとも覚候はず」と申しければ、平家の兵共これ聞いて、みな震ひわななきあへり。


いよいよ、源平両軍が富士川をはさんで向かい合う事となった。実盛から東武士の勇猛さを聞かされて臆病になっていた平家の武士たちは、戦いを避けて右往左往する百姓を源氏の兵と見誤ったり、水鳥の立てる羽音を敵襲と勘違いして、大混乱しながら後退した。


~さる程に、十月廿三日にもなりぬ。あすは源平富士河にて矢合とさだめたりけるに、夜に入りて、平家の方より源氏の陣を見渡せば、伊豆・駿河の人民・百姓等がいくさに恐れて、或は野にいり、山にかくれ、或は船にとり乗つて海河にうかび、いとなみの火の見えけるを、平家の兵ども、「あなおびたたしの源氏の陣の遠火のおほさよ。げにも誠に野も山も海も河もみなかたきでありけり。いかがせん」とぞあはて慌てける。其夜の夜半ばかり、富士の沼にいくらも群れゐたりける水鳥どもが、何にか驚きたりけん、ただ一度にばッと立ちける羽音の、大風雷なンどの様にきこえければ、平家の兵共、「すはや源氏の大勢の寄するは。斎藤別当が申しつる様に、定めて搦手もまはるらん。取込められては叶ふまじ。ここをば引いて尾張河洲俣を防けや」とて、とる物もとりあへず、我さきにとぞ落ちゆきける。あまりにあはて騒いで、弓とる物は矢を知らず、矢とるものは弓をしらず、人の馬にはわれ乗り、わが馬をば人に乗らる。或はつないだる馬に乗つて杭をめぐる事かぎりなし。近き宿々より迎へとッてあそびける遊君遊女ども、或は頭蹴わられ、腰踏み折られて、喚き叫ぶ物おほかりけり。


あくる廿四日卯刻に、源氏大勢廿万騎、ふじ河に押しよせて、天もひびき、大地もゆるぐ程に、時をぞ三ケ度つくりける。

戦わずして勝った頼朝は、追撃せずに鎌倉に凱旋し、そこで自分の地盤固めに専念することとする。平家の衰退振りと、頼朝の上昇機運とが、劇的に対比されている部分だ。



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