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大原御幸:平家物語灌頂の巻


灌頂の巻は、平家物語の後日談として、清盛の娘であり安徳天皇の生母であった建礼門院の最後について語る。この部分の平家物語における位置づけについては、さまざまな見方があるが、文体などからして、もとは独立の語り物であったものが、後に平家物語本体に加えられたと考えられなくもない。和文主体の嫋嫋たる文体で、建礼門院の最後の日々について語っている。その内容は、女院の出家から大原の寂光院への入御、寂光院への後白河法皇の訪問、法王を前にして女院が自分の生涯を六道の転変として振り返ることなどからなり、最後は女院の極楽往生=女人成仏で締めくくっている。

灌頂の巻のハイライトは、後白河法皇が公卿や天上人を引き連れ、大原の寂光院に建礼門院を訪問する場面を語る「大原御幸」の章である。都をたった法皇の一行は、鞍馬道を経由して、草深い山中に寂光院を尋ねる。寂光院は寂れ果てて、いかにも世の無常なることを感じさせる。

法皇が呼びかけると、一人の老尼が案内に出てくる。その名を聞くと、法皇の乳母の子阿波の内侍だと名乗り、法皇が自分のことを忘れてしまっていることを嘆く。法皇が女院の所在を聞くと、裏山に花を摘みに行っていると答える。使いに赴く者もないのかと、法皇が同情すると、老尼は、これは悟りを開くための苦行なのだと答える。そのうちに山の上から二人の尼が降りてくる。そのひとりが建礼門院であった。


~法皇「人やある、人やある」と召されけれども、御答申すものもなし。はるかにあッて、老衰へたる尼一人参りたり。「女院はいづくへ御幸なりぬるぞ」と仰せければ、「此うへの山へ花つみにいらせ給ひてさぶらふ」と申す。「さやうの事につかへ奉るべき人もなきにや。さこそ世を捨つる御身といひながら、御いたはしうこそ」と仰せければ、此尼申しけるは、「五戒十善の御果報つきさせ給ふによッて、今かかる御目を御覧ずるにこそさぶらへ。捨身の行になじかは御身を惜しませ給ふべき。因果経には「欲知過去因、見其現在果、欲知未来果、見其現在因」ととかれたり。過去未来の因果をさとらせ給ひなば、つやつや御歎あるべからず。悉達太子は十九にて伽耶城をいで、檀特山の麓にて、木葉をつらねて膚をかくし、嶺にのぼりて薪をとり、谷にくだりて水をむすび、難行苦行の功によッて、遂に成等正覚し給ひき」とぞ申しける。此尼のあり様を御覧ずれば、きぬ布のわきも見えぬ物を結び集めてぞ着たりける。「あのあり様にてもかやうの事申す不思議さよ」と思し召し、「抑汝はいかなるものぞ」と仰せければ、さめざめとないて、しばしは御返事にも及ばず。良あッて涙をおさへて申しけるは、「申すにつけても憚おぼえさぶらへども、故少納言入道信西がむすめ、阿波の内侍と申ししものにてさぶらふ也。母は紀伊の二位、さしも御いとほしみ深うこそさぶらひしに、御覧じ忘れさせ給ふにつけても、身のおとろへぬる程も思ひしられて、今更せむかたなうこそおぼえさぶらへ」とて、袖をかほにおしあてて、忍びあへぬさま、目もあてられず。法皇も「されば汝は阿波の内侍にこそあんなれ。今更御覧じわすれける。ただ夢とのみこそ思し召せ」とて、御涙せきあへさせ給はず。供奉の公卿殿上人も、「不思議の尼かなと思ひたれば、理にてありけり」とぞ、各々申しあはれける。

~あなたこなたを叡覧あれば、庭の千種露おもく、籬に倒れかかりつつ、外面の小田も水こえて、鴫たつひまも見えわかず。御庵室にいらせ給ひて、障子を引きあけて御覧ずれば、一間には来迎の三尊おはします。中尊の御手には五色の糸をかけられたり。左には普賢の画像、右には善導和尚并に先帝の御影をかけ、八軸の妙文・九帖の御書も置かれたり。蘭麝の匂に引きかへて、香の煙ぞ立ちのぼる。彼の浄名居士の方丈の室の内に三万二千の床をならべ、十方の諸仏を請じ奉り給ひけむも、かくやとぞおぼえける。障子には諸経の要文共、色紙にかいて所々におされたり。そのなかに大江の貞基法師が清凉山にして詠じたりけむ「笙歌遥かに聞ゆ孤雲の上、聖衆来迎す落日の前」ともかかれたり。すこし引きのけて女院の御製とおぼしくて、

思ひきやみ山のおくに住ひして雲ゐの月をよそに見むとは

~さてかたはらを御覧ずれば、御寢所とおぼしくて、竹の御さをに麻の御衣、紙の御衾なンどかけられたり。さしも本朝漢土のたへなるたぐひ数をつくして、綾羅錦繍の粧もさながら夢になりにけり。供奉の公卿殿上人も各々見参らせし事なれば、今のやうに覚えて、皆袖をぞしぼられける。

~さる程(ほど)に、うへの山より、こき墨染の衣きたる尼二人、岩のかけ路をつたひつつ、おり煩ひ給ひけり。法皇是を御覧じて、「あれは何ものぞ」と御尋あれば、老尼涙をおさへて申しけるは、「花筐ひぢにかけ、岩つつじとり具してもたせ給ひたるは、女院にて渡らせ給ひさぶらふなり。爪木に蕨折具してさぶらふは、鳥飼の中納言維実のむすめ、五条大納言邦綱卿の養子、先帝の御めのと、大納言佐」と申しもあへず泣きけり。法皇もよに哀れげに思し召して、御涙せきあへさせ給はず。女院は「さこそ世を捨つる御身といひながら、いまかかる御ありさまを見参らせむずらんはづかしさよ。消えもうせばや」とおぼしめせどもかひぞなき。よひよひごとのあかの水、結ぶたもとも萎るるに、暁起きの袖の上、山路の露もしげくして、しぼりやかねさせ給ひけん、山へも帰らせ給はず、御庵室へもいらせ給はず、御涙にむせばせ給ひ、あきれてたたせましましたる所に、内侍の尼参りつつ、花がたみをば給はりけり。


灌頂の巻は、後白河法皇の大原御幸は一回限りのことだったと匂わせているが、京童の間には、法皇は何度も建礼門院を訪ねたという噂がたったようだ。その目的はいわずもがな、というわけである。



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