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土佐房:平家物語巻第十二


義経の力を恐れた頼朝は、義経殺害を決意する。義経のいる京都に大軍を派遣して、力で追討しようとも考えたが、それでは宇治・瀬田の橋がはずされ、京都が大混乱に陥るだろうから、自分の評判を悪くすると思って躊躇した。そこで刺客を京都に派遣して、義経を暗殺させようと企む。刺客に選ばれたのは、僧兵上がりの土佐坊昌俊であった。頼朝は昌俊に向かって、物詣をすると見せかけ、折りを見て義経を殺せと命令する。

京都にやって来た土佐坊は、義経のところに挨拶しない。それを怪しんだ義経が、弁慶に命じて土佐坊を召し出す。土佐坊は、自分の計画が義経にばれるのを恐れ、なにかと言いつくろったあげくに起請文を書いて、それを食って見せたり、あるいは寺社に奉納したりして、なんとかその場を取り繕うとする。かくしてひとまず危機を脱した土佐坊は、自分の宿舎に戻ると急ぎ軍勢を整え、義経の襲撃に向かうのである。


~さる程に、九郎判官には、鎌倉殿より大名十人つけられたりけれども、内々御不審を蒙り給ふよし聞えしかば、心をあはせて一人づつ皆下り果てにけり。兄弟なるうへ、殊に父子の契をして、去年の正月木曾仲を追討せしよりこのかた、度々平家を攻め落し、ことしの春ほろぼし果てて、一天をしづめ、四海を澄ます。勧賞おこなはるべき処に、いかなる子細あッてかかかる聞えあるらむと、かみ一人をはじめ奉り、しも万民に至るまで、不審をなす。此事は、去んぬる春、摂津国渡辺よりふなぞろへして八島へわたり給ひしとき、逆櫓立てう立てじの論をして、大きにあざむかれたりしを、梶原遺恨に思ひて常は讒言しけるによッてなり。

~定めて謀反の心もあるらん、大名共さしの上せば、宇治・勢田の橋をもひき、京中の騒ぎとなッて、中々悪しかりなんとて、土佐房昌俊をめして、「和僧上つて物詣するやうにて、たばかッてうて」との給ひければ、昌俊畏ッて承り、宿所へも帰らず、御前をたッてやがて京へぞ上りける。同九月廿九日、土佐房都へついたりけれども、次の日まで判官殿へも参らず。

~昌俊がのぼりたるよし聞き給ひ、武蔵房弁慶をもッてめされければ、やがて連れて参りたり。判官の給ひけるは、「いかに鎌倉殿より御文はなきか」。「さしたる御事候はぬ間、御文は参らせられず候。御詞にて申せと候ひしは、『「当時まで都に別の子細なく候事、さて御渡候ふ故とおぼえ候。相構へてよく守護せさせ給へ」と申せ』とこそ仰せられ候ひつれ」。判官「よもさはあらじ。義経討ちにのぼる御使なり。「大名どもさし上せば、宇治・勢田の橋をもひき、都鄙の騒ぎともなッて、中々悪しかりなん。和僧上せて物詣する様にてたばかッてうて」とぞ仰付けられたるらんな」との給へば、昌俊大きに驚きて、「何によッてか只今さる事の候ふべき。いささか宿願によッて、熊野参詣のために罷上りて候」。

~そのとき判官の給ひけるは、「景時が讒言によッて、義経鎌倉へも入れられず。見参をだにし給はで、追ひ上せらるる事はいかに」。昌俊「其事はいかが候らん、身においてはまッたく御腹ぐろ候はず。起請文をかき進ずべき」よし申せば、判官「とてもかうても鎌倉殿によしと思はれ奉つたらばこそ」とて、以外気色あしげになり給ふ。昌俊一旦の害を逃れんがために、居ながら七枚の起請文をかいて、或はやいてのみ、或は社に納めなンどして、許りてかへり、大番衆にふれめぐらして、其夜やがて寄せんとす。


義経の愛していた女に静御前と言う白拍子があった。白拍子といっても、ただの芸人ではない。義経の身の安全を慮ってさまざまな計略をする度量を持つ。このたびも、土佐坊の様子を不審に思い、手下に偵察させたりする。その手下というのが、かつて清盛に召抱えられていた禿童なのであった。この禿童が殺されると、今度は女を遣わすが、この女もスパイのようなものと思われる。このことから、静御前は諜報組織を操っていた女指導者だというイメージが伝わってくる。

なお文中、男が「さうらふ」というところを、女は「さぶらふ」と言っている。この時代の女言葉の代表格だったのだろう。


~判官は磯禅師といふ白拍子のむすめ、静といふ女を最愛せられけり。しづかもかたはらを立ちさる事なし。しづか申しけるは、「大路はみな武者でさぶらふなる。是より催しのなからむに、大番衆の者どもこれほど騒ぐべき様やさぶらふ。あはれ是は昼の起請法師のしわざとおぼえ候。人を遣して見せさぶらはばや」とて、六波羅の故入道相国の召し使はれけるかぶろを三四人使はれけるを、二人遣したりけるが、程ふるまつかはす【遣す。程なく走り帰りて申しけるは、「かぶろとおぼしきものはふたりながら、土佐房の門にきり伏せられてさぶらふ。宿所には鞍置き馬どもひしと引つ立てて、大幕のうちには、矢負ひ弓張り、者ども皆具足して、只今よせんといで立ちさぶらふ。少しも物まうでのけしきとは見えさぶらはず」と申しければ、判官是を聞いて、やがて打つ立ち給ふ。着背長とッてなげかけ奉る。高紐ばかりして、太刀とッて出で給へば、中門の前に馬に鞍おいて引つたてたり。是に打乗つて、「門をあけよ」とて門あけさせ、今や今やと待ち給ふ処に、しばしあッてひた甲四五十騎門の前におしよせて、時をどッとぞつくりける。判官鐙ふンばり立ち上がり、大音声をあげて、「夜討にも昼戦にも、義経たやすう討つべきものは、日本国におぼえぬものを」とて、只一騎喚いてかけ給へば、五十騎ばかりのもの共、中をあけてぞ通しける。

~さる程に、江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶なンどいふ一人当千の兵共、やがて続いて攻戦ふ。其後侍共「御内に夜討いッたり」とて、あそこのやかたここの宿所より馳来る。程なく六七十騎集りければ、土佐房たけくよせたりけれ共戦ふに及ばず。散々にかけ散らされて、たすかるものはすくなう、うたるるものぞ多かりける。昌俊希有にしてそこをば逃れて、鞍馬の奥ににげ籠りたりけるが、鞍馬は判官の故山なりければ、彼法師土佐房をからめて、次日判官の許へ送りけり。僧正が谷といふ所に隠れゐたりけるとかや。

~昌俊を大庭に引つ据ゑたり。かちの直垂に首丁頭巾をぞしたりける。判官笑つての給ひけるは、「いかに和僧、起請にはうてたるぞ」。土佐房すこしも騒がず、居直り、あざ笑つて申しけるは、「ある事にかいて候へば、うてて候ふぞかし」と申す。「主君の命をおもんじて、私の命をかろんず。こころざしの程、尤も神妙なり。和僧いのち惜しくは鎌倉へ返し遣さんはいかに」。土佐房、「まさなうも御諚候ふものかな。惜しと申さば殿は助け給はんずるか。鎌倉殿の「法師なれども、己ぞねらはんずる者」とて仰せかうぶッしより、命をば鎌倉殿に奉りぬ。なじかはとり返し奉)るべき。ただ御恩にはとくとく頸をめされ候へ」と申しければ、「さらばきれ」とて、六条川原に引き出いて斬つてンげり。ほめぬ人こそなかりけれ。


昌俊は「正尊」という名で能になっている。能では、昌俊こと正尊が義経や弁慶の前で披露する起請文が中心テーマとなっており、正尊がシテを勤める。



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