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嗣信最期:平家物語巻第十一


船で四国に上陸した義経は、土地の豪族を味方にして、七・八十騎で屋島を急襲した。平家のほうは、源氏が大軍で押し寄せてきたと勘違いし、海上に逃れたが、敵が少数と知ると、能登守教経が先頭になって、反撃に転じた。戦いの火蓋は、双方の舌戦で落とされた。平家方は義経を、孤児だとか金商人の従者だとか言って罵ったが、源氏側の放った矢が平家の武将を倒すと舌戦は終わり、戦闘が始まった。

平家は、船から矢を射掛けてくる。能登守教経は強弓の名手とあって、義経を一矢で倒さんと狙う。主君を殺させまじと、大勢の勇者が矢面に立ち、たちまち十人ばかりが射殺される。その矢面にたった一人に佐藤嗣信がいた。嗣信は、弟の忠信とともに、義経の旗揚げに福島からはせ参じた兵だった。


~能登守教経「ふないくさは様ある物ぞ」とて、鎧直垂は着給はず、唐巻染の小袖に唐綾威の鎧きて、いか物づくりの大太刀はき、廿四さいたる鷹護田尾の矢負ひ、滋籐の弓をもち給へり。王城一の強弓精兵にておはせしかば、矢先にまはる物、射通されずといふ事なし。なかにも九郎大夫判官を射落さんとねらはれけれども、源氏の方にも心得て、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信・同四郎兵衛忠信・伊勢三郎義盛・源八広綱・江田源三・熊井太郎・武蔵房弁慶なンどいふ一人当千の兵ども、我も我もと、馬のかしらをたてならべて大将軍の矢おもてにふさがりければ、ちから及び給はず、「矢おもての雑人原そこのき候へ」とて、差し詰め引き詰め散々に射給へば、やにはに鎧武者十余騎ばかり射落さる。なかにもまッさきにすすむだる奧州の佐藤三郎兵衛が、弓手の肩を馬手の脇へつッと射貫かれて、しばしもたまらず、馬よりさかさまにどうどおつ。

~能登殿の童に菊王といふ大ぢからの剛の物あり。萌黄おどしの腹巻に、三枚甲の緒をしめて、白柄長刀のさやを外し、三郎兵衛が頸をとらんと走りかかる。佐藤四郎兵衛、兄が頸をとらせじとよッぴいてひやうど射る。童が腹巻のひきあはせをあなたへつッと射貫かれて、犬居に倒れぬ。能登守是を見て、いそぎ舟よりとんでおり、左の手に弓をもちながら、右の手で菊王丸を引つさげて、舟へからりとなげられたれば、敵に頸はとられねども、痛手なれば死ににけり。是はもと越前の三位の童なりしが、三位うたれて後、弟の能登守に使はれけり。生年十八歳にぞなりける。この童をうたせてあまりにあはれに思はれければ、其後はいくさもし給はず。

~判官は佐藤三郎兵衛を陣のうしろへかき入れさせ、馬よりおり、手をとらへて、「三郎兵衛、いかが覚ゆる」との給へば、息のしたに申しけるは、「いまはかうと存候」。「思ひ置く事はなきか」との給へば、「なに事をか思ひ置き候ふべき。君の御世にわたらせ給はんを見参らせで、死に候はん事こそ口惜しく覚え候へ。さ候はでは、弓矢とる物の、敵の矢にあたッてしなん事、もとより期する処で候也。就中に「源平の御合戦に、奥州の佐藤三郎兵衛嗣信といひける物、讃岐国八島のいそにて、主の御命にかはり奉つて討たれにけり」と、末代の物語に申されん事こそ、弓矢とる身は今生の面目、冥途の思出にて候へ」と申しもあへず、ただ弱りに弱りにければ、判官涙をはらはらとながし、「此辺にたッとき僧やある」とて、尋ねいだし、「手負のただいま落ちいるに、一日経かいてとぶらへ」とて、黒き馬の太う逞しいに、黄覆輪の鞍おいて、かの僧にたびにけり。判官五位尉になられし時、五位になして、大夫黒とよばれし馬也。一の谷鵯越をもこの馬にてぞ落されたりける。弟の四郎兵衛をはじめとして、是を見る兵ども皆涙をながし、「此君の御ために命を失はん事、まッたく露塵程も惜しからず」とぞ申しける。


嗣信の死と、それに対する義経の礼遇は兵たちを感動させ、源氏の結束を固めることになる。なお、弟の忠信のほうは、義経が吉野の僧兵に攻められたときに盾となって守り、後には京都の判官屋敷で壮絶な自害を遂げる。

以上、佐藤兄弟は、忠義と言う武士の徳義を体現したものとして、歴史に名を残すこととなった。



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