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女死せる夫の來たるを見る語 今昔物語集巻二七第廿五


今は昔、大和國某郡に住む人に、一人の娘があった。姿が美しく、心栄えが優しかったので、両親はたいそう可愛がっていた。また河内國某郡に住む人に、一人の息子があった。年若く、凛々しかったので、京で宮仕えをしていた。笛を吹くのがうまく、心も優しかったので、両親はたいそう大事にしていた。

そのうち、息子のほうが、大和國の娘の評判を聞きつけ、手紙を送って、交際を申し込んだが、娘の両親はしばらくはいうことを聞かなかった。それでもたびたび申し入れてくるので、両親もついに二人を合わせた。その後二人は中むつまじく暮らしていたが、三年ばかり立った頃、夫は病を得て、療養の甲斐もなく、ついに死んでしまった。

妻はたいそう悲しんで、亡き夫のことばかり思い慕い、同国の人から再婚の話を申し込まれても聞き入れなかった。

三年ほどたった秋のある夜、女がいつにもまして悲しみにくれていると、遠くから笛を吹く音が聞こえてきた。
「あわれ、あの人の笛によく似ていますこと」と、いよいよ懐かしく思っていると、何者かが近づいて、女の部屋の蔀戸のところから、
「どうか聞いておくれ」という声をかけてきた。その声がまさに昔の夫のものであったので、不思議にも恐ろしくも思われ、やわら起き上がって戸の隙間から見ると、まさしく夫が立っているのが見えた。夫は嘆きつつ、次のように歌った。
  シデの山を越えていくべき人が悲しく思うのは
   愛する人と一緒にいられないことです

夫の立ち姿は昔のままであったが、恐ろしげであった。紐を解き、身から煙が立ち上っている。女は恐ろしくて、ものもいえない有様だったので、男は、
「無理もない、あなたがたいそう嘆き悲しむ様子に心を動かされ、こうしてやってきましたが、こんなにも怖がるのでは、帰ることにしましょう、日に三度も劫火に焼かれる身ではありますが」
こういって、かき消すようにいなくなってしまった。

女は、夢幻かとも思ったが、そうでもない、それにしても不思議だと思うばかりだった。思うに、人は死んだ後もこの世に戻ってくる事があるらしい、こう人びとは言い伝えてきた。


自分が死んだ後も、妻が恋焦がれていることを哀れに思い、精霊となって戻ってくるという物語だ。

通常、精霊というものはマイナスイメージをまとっているのだが、この物語の中では違う。生き残って自分を恋い慕っている妻を慰めてやろうとする心優しい精霊である。だがその精霊を、妻の方が恐ろしく思うのは精霊というものがこの当時まとっていたイメージを引きずっているのであろう。

日本人の伝統的な死生観においては、人は死ぬと霊魂が身体から遊離するのだが、その霊魂は一定の期間、生き残った人々のもとを離れないで、その周辺にさまよっていると信じられていた。

そうした霊魂は、生き残った者が不届きであると悪霊となって現れ、感心だと思えば庇護者となって現れる。



今は昔、大和國□郡に住む人有りけり。一人の娘有り。形美麗にして心労たかりければ、父母此れを傳きけり。亦、河内國□郡に住む人有りけり。一人の男子有りけり。年若くして、形美しかりければ、京に上りて宮仕して、笛をぞ吉く吹きける。心ばへなども可咲しかりければ、父母此れを愛しけり。

而る間、彼の大和國の人の娘、形・有樣美麗なる由を傳へ聞きて、消息を遣して、懃ろに假借しけれども、暫くは聞き入れざりけるを、強ちに云ひければ、遂に父母此れを會はせてけり。其の後、限無く相思ひて棲みける程に、三年許有りて、此の夫、思ひ懸けず身に病を受けて、日來煩ひける程に、遂に失せにけり。

女、此れを歎き悲しんで戀ひ迷ひける程に、其の國の人、數た消息を遺して假借しけれども、聞きも入れずして、尚死にたる夫をのみ戀ひ泣き、年來を經るに、三年と云ふ秋、女、常よりも涙に溺れて泣き臥したりけるに、夜半許に笛を吹く音の遠く聞えければ、「哀れ、昔の人に似たる物かな」と、彌よ哀れに思ひけるに、漸く近く來て、其の女の居たりける蔀の許に寄り來て、「此れ開けよ」と云ふ音、只昔の夫の音なれば、奇異しく哀れなる物から怖しくて、和ら起きて蔀の迫より臨きければ、男、現はに有りて立てり。打泣きて此く云ふ、
しでの山こえぬる人のわびしきはこひしき人にあはぬなりけり
とて立てる樣、有りし樣なれど怖しかりけり。紐をぞ解きて有りける。亦身より煙の立ちければ、女怖しくて、物も云はざりければ、男、「理なりや。極じく戀ひ給ふが哀れにあれば、破無き暇を申して參り來たるに、此く恐ぢ給へば罷り返りなむ。日に三度燃ゆる苦をなむ受けたる」と云ひて、掻消つ樣に失せにけり。

然れば、女、此れ夢かと思ひけれども、夢にも非ざりければ、奇異しと思ひて止みにけり。此れを思ふに、人死にたれども、此く現はにも見ゆる者なりけりとなむ、語り傳へたるとや。


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