日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




産女、南山科に行きて鬼に値ひて逃げし語:今昔物語集巻二七第十五


今は昔、ある貴族の家に仕えていた女があった。父母類親もなく、知り合いもいなかったので、訪ねる場所もなく、ただ局にいて、「病気になったらどうしよう」と心細く思っていたが、そのうち決まった夫もいないのに、妊娠してしまった。いよいよ身の不運が嘆かれるのであったが、出産の準備をしようにも、相談できる人もなく、主人にも恥ずかしくて話せないでいた。

ところがこの女は、賢こくもこう思った。「産気づいてきたら、召使の童をつれて、どこへでも奥深い山の中に入って行き、木の下ででも産もう、もし死んでも、人に知られることもないし、生き残ったら、さりげない様子をして帰ろう。」こう思いつつ、産月近くなると、さすがに悲しく覚えたが、さりげない様子を装って、ひそかに身構え、食べ物を少々準備して、童によくいい聞かせて過ごすうちに、いよいよ産月になった。

そのうち、明け方になって産気づいたので、夜が明けぬ前にと思って、童に荷物を持たせて急いで出た。「東のほうが近いだろう」と、京を出て東の方角にいくうち、川原のあたりで夜が明けた。心細い限りではあったが、休み休みしつつ、粟田山のあたりまで行ってから、山深く入っていった。然るべきところを求めて歩くうち、北山科というところについた。見れば、山の斜面にそって、壊れがかった山荘が建っている、人が住んでいる気配はない、「ここで子を産んで、自分ひとりだけ出て行こう」女はこう思って、垣根を越えて中に入っていった。

放出の間(別棟)に上ると板敷きがところどころ腐っている。そこに横になって休んでいると、遠くより人が来る音がする。「ああ、人が住んでいたのか」と思っていると、遣り戸があいて、白髪頭の老婆が現れた。罵られるかと心配したが、やさしげに微笑んで、「どなた様がおいでですか」という。女はありのままに泣く泣く語ったところ、老婆は気の毒がって、「ここで産みなさい」といって、中に入れてくれたので、女はうれしくなり、「仏様が助けてくれるのだ」と思いながら中に入ると、程もなく子供が生まれた。

老婆は「めでたいことです、わたしは年老いてこんな田舎に住んでいますので物忌みもしません。七日ばかりゆっくりしていきなさい。」といって、お湯を沸かして子どもに湯浴みさせてくれたので、女はうれしくなり、捨てようと思った子がかわいくなって、乳を飲ませて寝かせつけたりした。

こうして二三日がたったあるとき、女が昼寝をしていると、老婆が現れ、寝ている子どもをみて、「ああうまそうだ」といった。驚いて老婆を見ると、たいそう恐ろしげな様子、「これは鬼に違いない、わたしも食われてしまう」そう思った女は、ひそかに身構えて逃げようと思ったのだった。

あるとき老婆が昼寝をしているすきに、女は子どもを童に背負わせ、自分は身軽ないでたちで、「仏様、おたすけ」と念じながら、その家を抜け出し、かつて来た道を走りに走って、程もなく粟田口まで戻った。そこからは川原沿いに行き、人家に立ち寄って着替えをし、夕刻主人の家に帰った。

利口な女ゆえ、このようなことをもしたのである。子どもは養子に出したそうだ。その後、この女は、老婆がどうなったか知らず、その老婆との間であったことを人に話すこともなかった。随分と年をとった後に、始めて語ったということだ。

これを思うに、旧いところには必ず物の怪が住んでいるものだ。だからあの老婆も、子どもをうまそうだなどといったのは、恐らく鬼であった証拠といえる。こんな場所に、一人で立ち寄るべきではないと、人びとは語り伝えたということだ。


この物語は、山に住む鬼である山姥に関連があるものだろう。山姥は一方では人を取って食う恐ろしい鬼であると考えられたが、他方では慈愛に満ちた山の神であるという側面を持っている。この物語は、そうした山姥の両義的な性格を、身寄りのない哀れな女の出産と関連付けながら述べていると考えられる。

女は誰ともわからぬ男の子を宿してしまったが、身寄りもなく、里に帰って出産することもかなわない、素性がわからぬ子なので、主人にも恥ずかしくて相談できぬ。そこで山の中に入っていって、そこで産み捨てようと思う。

産気づいてきたところで、童女とともに山中をさまよい歩き、一軒の小屋を見つけそこに入っていく。誰もいないと思っていると、老婆が現れて親切にしてくれる。そこで女は安心して子を産むのだが、その子とともに転寝をしているときに、老婆が子の寝顔をのぞきこんで「ああ、うまそう」とつぶやく。

ここで初めて女は老婆がおそろしい山姥であると気づくのだが、別に山姥によって危害を加えられるわけでもない。童女に子を負ぶわせて無事逃げることができるのだ。

この物語は、人食いの側面が強まる以前の山姥の姿を反映しているといえよう。中世以降の昔話の世界では、山姥はもっと恐ろしい姿で描かれることが多いのである。



今は昔、或る所に宮仕しける若き女有りけり。父母類親も無く、聊かに知りたる人も無かりければ、立ち寄る所も無くて、只局にのみ居て、「若し病などせむ時にいかがせむ」と心細く思ひけるに、指せる夫も無くて懐妊しにけり。然ればいよいよ身の宿世押量られて、心一つに歎きけるに、先づ産まむ所を思ふに、爲べき方無く、云ひ合はすべき人も無し。主に申さむと思ふも、恥かしくて申し出でず。

 而るに、此の女、心賢しき者にて、思ひ得たりけるやう、「只我其の氣色有らむ時に、只獨り仕ふ女の童を具して、何方とも無く深き山の有らむ方に行きて、いかならむ木の下にても産まむ」と、「若し死なば、人にも知られで止みなむ。若し生きたらば、さりげ無き樣にて返り參らむ」と思ひて、月漸く近く成るままには、悲しき事云はむ方無く思ひけれども、さりげ無く持て成して、密かに構へて、食ふべき物など少し儲けて、此の女の童に此の由を云ひ含めて過ぐしけるに、既に月滿ちぬ。

 而る間、暁方に其の氣色思えければ、夜の明けぬ前と思ひて、女の童に物どもしたため持たせて急ぎ出でぬ。「東こそ山は近かめれ」と思ひて、京を出でて東ざまに行かむとするに、川原の程にて夜明けぬ。哀れ、いづち行かむと心細けれども、念じて打休み打休み、粟田山の方ざまに行きて、山深く入りぬ。さるべき所々を見行きけるに、北山科と云ふ所に行きぬ。見れば、山の片沿ひに山荘のやうに造りたる所有り。旧く壞れ損じたる屋有り。見るに、人住みたる氣色無し。「ここにて産して我が身獨りは出でなむ」と思ひて、構へて垣の有りけるを超えて入りぬ。

 放出の間に板敷所々に朽ち殘れるに上りて、突居て休む程に、奥の方より人來たる音す。「あな侘し、人の有りける所を」と思ふに、遣戸の有るを開くるを見れば、老いたる女の白髪生ひたる、出で來たり。「定めてはしたなく云はむずらむ」と思ふに、にくからず打ちゑみて、「何人のかくは思ひ懸けずおはしたるぞ」と云へば、女、有りのままに泣く泣く語りければ、嫗、「いと哀れなる事かな。只ここにて産し給へ」と云ひて、内に呼び入るれば、女、嬉しき事限り無し。「佛の助け給ふなりけり」と思ひて、入りぬれば、あやしの畳など敷きて取らせたれば、程も無く平らかに産みつ。嫗來て、「嬉しき事なり。己は年老いてかかる片田舎に侍る身なれば、物忌もし侍らず。七日ばかりはかくておはして返り給へ」と云ひて、湯などこの女の童に涌かさせて浴しなどすれば、女嬉しく思ひて、棄てむと思ひつる子もいといつくしげなる男子にて有れば、え棄てずして、乳打呑ませて臥せたり。

 かくて二三日ばかり有る程に、女晝寢をして有りけるに、この子を臥せたるをかの嫗打見て、云ひける樣、「あな甘げ、只一口」と云ふと、ほのかに聞きて後、驚きてこの嫗を見るに、いみじく氣怖しく思ゆ。されば、「これは鬼にこそ有りけれ。我れは必ず食はれなむ」と思ひて、密かに構へて逃げなむと思ふ心付きぬ。

而る間、或る時に嫗の晝寢久しくしたりける程に、密かに子をば女の童に負はせて、我は輕びやかにして、「佛、助け給へ」と念じて、そこを出でて、來し道のままに、走りに走りて逃げければ、程も無く粟田口に出でにけり。そこより川原ざまに行きて、人の小家に立ち入りて、そこにて衣など着直してなむ、日暮して主の許には行きたりける。

心賢しき者なりければ、かくもするぞかし。子をば人に取らせて養はせてけり。 其の後、其の女、嫗の有樣を知らず。亦人にかかる事なむ有りしと語る事も無かりけり。さて、其の女の年など老いて後に語りけるなり。 此れを思ふに、さる旧き所には必ず物の住むにぞ有りける。されば、あの嫗も、子を「あな甘げ、只一口」と云ひけるは、定めて鬼などにてこそは有りけめ。これに依りて、さやうならむ所には、獨りなどは立ち入るまじき事なりとなむ、語り傳へたるとや。


HOME日本の説話今昔物語集次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2021
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである