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雄略天皇の国褒め歌と伝承歌
日本神話の世界


万葉集全二十巻の冒頭を飾るものは、雄略天皇の御製歌とされるものである。万葉集の編者が雄略天皇の歌を以て、冒頭を飾るに相応しいと考えたのには、それなりの理由があったのだろう。この天皇には、多くの伝承歌が結びついて伝わっており、いわば日本古代のおおらかな気分が、この天皇のうちに体現されているとも思えるのだ。

雄略天皇自身は、別名に大悪天皇とあるように、殺伐とした側面も持っていたとされるから、かくも多くの歌と結びついているのは、ある意味で驚くべきことである。しかもそれらの歌をよく読むと、「我が大君」という言葉が使われていたり、天皇の御製歌とするには不自然なものが多い。そこから、おそらく伝承歌として伝わっていたものが、雄略天皇と結びついたのだろうという推測を促すことになった。

雄略天皇は、歴代の天皇の中でも特別な地位を占めている。「宋書」等に記される「倭の五王」中の倭王武は雄略天皇である可能性が高く、その実在性が確からしいことはもとより、この天皇の時代に大和朝廷は吉備を始め地方の豪族を服属させ、国家統一を磐石なものにしたらしいのである。

したがって、この天皇には大和の統一国家のイメージが結びつき、国褒めを始めさまざまな伝承歌が結びついたのではないかとも考えられるのである。

まず、万葉集の冒頭を飾っている歌を読んでみよう。

―泊瀬の朝倉の宮に天の下しろしめしし天皇の代 天皇のよみませる御製歌
   籠(こ)もよ み籠持ち 堀串(ふくし)もよ み堀串持ち
  この丘に 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
  そらみつ 大和の国は 
  おしなべて 吾こそ居れ しきなべて 吾こそ座せ 
  吾をこそ 夫とは告らめ 家をも名をも

これは、野に菜を摘む乙女に向けて求愛するとともに、大和の国こそは自分が統治するよき国だと歌っている。そこから国褒めの歌でもあるとされてきた。いづれにせよ、大和の新生国家とそれを統治する天皇の若々しい息吹が伝わってくる。

一方古事記も、雄略天皇の部に、多くの歌を載せている。古事記は雄略天皇に限らず、歴代天皇の事跡を記載しながら、ところどころに歌を交えているのであるが、雄略天皇においては、歌の比重が非常に大きい。全体が歌物語といってもよいほどなのだ。

ここでは、それらを順次紹介しよう。

まず最初は、皇后との出会いについて語った部分である。皇后はもとの名を「若日下部王」といい日下に住まいしていた。天皇は河内に出かけた折、さるきっかけから白犬を献上され、それを求愛の徴として若日下部王に贈った。若日下部王が受諾したことを喜んだ天皇が、御宮に戻る途中坂の上で読んだというのが次の歌である。

日下部の 此方(こち)の山と 畳薦【たたみこも】平群の山の
  此方此方(こちごち)の 山の峡(かひ)に 立ち栄ゆる 葉広熊白檮(くまかし)
  本には い組み竹生ひ 末方(すゑへ)には た茂【し】み竹生ひ 
  い組み竹 い組みは寝ず た茂み竹 たしには率寝【ゐね】ず 
  後も組み寝む その思ひ妻 あはれ

今は互いに離れているが、そのうち、竹が組み合うように、自分たちも絡み合って寝よう、これが歌の意である。

次いで赤猪子という女性との実らぬ恋についての物語がある。天皇が美和川に遊んだ際、ひとりの女性を見初めて、やがて迎えるから他の男に嫁ぐなと言い渡した。その言葉を信じた女性は、召されるのを待っているうち80歳になってしまったが、ついに痺れを切らして天皇のところに押しかけたのである。

天皇は赤猪子をみて、かつての約束を思い出したが、こんなに老いてしまっては「婚ひ」をするわけにもいかぬだろうといって、代わりに歌を贈った。

  御諸(みもろ)の 厳白檮(いつかし)が下 白檮(かし)が下 
  ゆゆしきかも 白檮原童女(かしはらをとめ)

  引田(ひけた)の 若来栖原(わかくるすばら) 若くへに 率寝【ゐね】てましもの 老いにけるかも

お前がまだ若かったなら、ともに寝たであろうが、こんなに老いてしまってはなあ、との気持ちが伝わってこよう。

これに対して、赤猪子は次の二首の歌を返した。

  御諸に 築(つ)くや玉垣 斎(つ)き余し 誰にかも依らむ 神の宮人
  日下江(くさかえ)の 入江の蓮(はちす) 花蓮 身の盛り人 羨(とも)しきろかも

日下江の入り江の蓮のように若々しい人々がうらやましうございます、そんな老女の気持ちが素直に現れている。

雄略天皇は吉野に遊んだ際、やはり乙女を見初め、彼女に呉床居の上で舞を舞わせた。

  呉床居(あぐらゐ)の 神の御手もち 弾く琴に 舞する女(をみな) 常世(とこよ)にもかも

永久に美しくいてほしいという気持ちを盛り込んだ歌である。

また天皇は蜻蛉野(あきつの)に狩をした際、アブに腕を食われた。すると蜻蛉(とんぼ)がやってきてそのアブを加えて去った。天皇は痛く感心し、次の歌を詠んだ。

  み吉野の 小村(をむろ)が嶽に 猪鹿伏(ししふ)すと 
  誰れそ 大前に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 
  猪鹿(しし)待つと 呉床(あぐら)に坐(いま)し 
  白栲(しろたへ)の 衣手着(そてき)そなふ 
  手腓(たこむら)に 虻(あむ)かきつき 
  その虻を 蜻蛉(あきづ)早咋(はやぐ)ひ かくの如 名に負はむと 
  そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ 

地名の由来を天皇に事寄せて語ったものだと思われる。

また或る時、天皇が葛城山に登った際、イノシシに追いかけられたことがあった。天皇は近くの榛の枝によじ登って難を逃れ、次の歌を詠んだ。

  やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪(しし)の病猪(やみしし)の 
  唸(うた)き畏み 我が逃げ登りし 在丘(ありを)の 榛(はりのき)の枝

天皇自らが「やすみしし我が大君」というのは不自然にも思われよう。これは多分伝承歌が天皇のものとして伝えられたことを表すのかもしれない。

また天皇が長谷の百枝槻に下に座して宴会を催したとき、伊勢の国の采女が杯を献上したが、運悪く杯の中に槻の葉が落ちた。采女は気づかずにそのまま差し上げたところ、怒った天皇は采女を殺そうとした。そのとき、采女が命乞いのために歌った歌が、次の歌である。

  纒向(まきむく)の 日代(ひしろ)の宮は 
  朝日の 日照る宮 夕日の 日がける宮 
  竹の根の 根垂る宮 木の根の 根蔓(ねば)ふ宮 
  八百土(やほに)よし い築(きづ)きの宮 真木さく 檜の御門 
  新嘗屋(にひなへや))に 生ひ立てる 百足る 槻が枝は 
  上枝(ほつえ)は 天を覆へり 中枝(なかつえ)は 東を覆へり 
  下枝(しづえ)は 鄙を覆へり 
  上枝(ほつえ)の 枝の末葉(うらば)は 中枝に 落ち触らばへ 
  中枝の 枝の末葉は 下枝(しもつえ)に 落ち触らばへ 
  下枝(しづえ)の 枝の末葉は あり衣(きぬ)の 三重の子が 
  指挙(ささが)せる 瑞玉盞(みづたまうき)に 浮きし脂 落ちなづさひ
  水(みな)こをろこをろに 是しも あやに畏し 
  高光る 日の御子 事の 語言(かたりごと)も 是をば

感心した天皇は罪を許し、自らも次の歌を歌った。

  ももしきの 大宮人は 鶉鳥 領巾取り懸けて 
  鶺鴒(まなばしら) 尾行き合へ 庭雀(にはすずめ) うずすまり居て 
  今日もかも 酒みづくらし 高光る 日の宮人 事の 語言も 是をば

この宴会では、春日の袁杼比売というものも、酒を奉った。そのときに天皇が詠んだ歌が次の歌である。

  水濯く 臣の嬢子(をとめ) 秀罇(ほだり)取らすも 
  秀罇取り 堅く取らせ 下堅く 弥堅く取らせ 秀罇取らす子

酒樽を落さぬよう、しっかり抱えておれよ、と気軽に声をかけている様子が伝わってくるようである。これに対して、袁杼比売も次の歌を返した。

  やすみしし 我が大君の 朝とには い倚り立たし 
  夕とには い倚り立たす 脇机(わきづき)が下の 板にもが あせを

恐れ多い天皇様の、脇机の下の板になりたいものですと、謙虚な恋心を歌っているようにも思われる。

このように、万葉集と古事記に収められた雄略天皇の御製歌とされるものは、古代人のおおらかな気持ちがあふれた、ほほえましいものが多いのである。



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