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柳田国男、南方熊楠、折口信夫:柄谷行人による比較


柄谷行人は「遊動論」において柳田国男を、南方熊楠及び折口信夫と比較している。南方も折口も柳田と並んで日本民俗学の巨匠と言われているが、三者の間にはかなりな学風の違いがある。その違いについて柄谷は彼なりの視点から比較検討しているわけである。

柳田と南方は1911年から文通を通じて意見交換を始めた。二人を結びつけたのは神社合祀への反対である。神社合祀は1906年から政府肝いりで始まり、全国的に展開されたのだが、とりわけ盛んだったのが南方の本拠地和歌山を始めとした西日本各県だった。その動きに対して南方がまず立ちあがり、柳田もそれに共鳴したというのが、彼らの連帯の動機だ。

彼らは二人とも神社合祀に強く反対したが、その理由はかならずしも同じではない。その理由の違いを柄谷は次のように整理している。

「近年、南方の見解は、先駆的なエコロジストとしての視点として称賛されている。実際、南方の考えは、合理的で普遍的である。一方、柳田が合祀令に反対した理由はもっぱら、神社の統合が固有信仰としての氏神を破壊してしまうという点にあった。南方にとって、日本の氏神信仰は民俗学の一分野として重要であった。が、柳田にとって、それは『国民生活変遷』の歴史から切り離すことができない問題であった」

つまり、神社合祀の問題を南方は学問の見地から見ていたのに対して、柳田は信仰を中心とした国民生活への危機として受け止めたというわけである。いうなれば、南方は学者としての視点から反対し、柳田は実践家としての視点から反対したということになる。この場合、実践家としての視点とは、日本人の宗教生活に深くかかわろうとする立場をも意味している。

こうした二人のスタンスの相違は、彼らの決定的な決裂にも反映した。かれらが決定的に決裂したのは1914年のことであるが、その理由は、南方が柳田の刊行した雑誌「郷土研究」に対して、不純、不十分だとして色々と注文をつけたことにある。南方が民俗学という純粋に学問的な見地から柳田の方針に注文をつけたことに対して、柳田のほうは、これは単に民俗学のための雑誌ではないと反論し、単に学問のための学問ではなく、国民生活を改良するための前提として広く農村生活を研究することを目的としている。したがって「農村生活誌」とか「国民生活変遷誌」と言い換えてもよいと答えたことにあった。

こうしてみると、柳田と南方の基本的な相違は、南方があくまでも純粋な学問研究の立場に立っているのに対して、柳田のほうは、それだけではなく、学問を国民生活の改良に役立てようとする実践的な姿勢を保っていたということになる。

一方、柳田と折口の比較については、柄谷は、日本の敗戦についての二人の反応の相違に注目しながら論じている。日本の敗戦の理由を折口は、日米両国民の宗教意識の差異に求めた。折口は、アメリカが勝利したのは、あの十字軍に見られたような宗教的な情熱をアメリカの青年がもっていたからである。それに対して日本の青年にはそういう情熱はなかった。その差が両国民の戦意の高さの違いとなり、戦意の低い日本が負けた。それはある意味必然のことであった。そのように折口は考えたのに対して、柳田はそうは考えなかった。つまり、柄谷によれば、宗教についての考え方の相違が、柳田と折口との違いの最大の要因だということになる。

折口は、アメリカ人の宗教であるユダヤ・キリスト教を普遍的な人類教であると捉えた。それに対して日本の宗教は、自分の先祖を神とまつるせせこましいものである。こういうせせこましい宗教では、国民全体を普遍的な価値の実現に向かって立ち上がらせる力はない。折口は従来から、日本の宗教の基本は神道だと考えていたが、その神道が先祖崇拝の域から脱しない限りは、戦意の高揚という面では、キリスト教に立ち向かえない。立ち向かうことができるようになるためには、神道もキリスト教同様「人類教」に昇華する必要がある。そのためには何が必要か。折口は、神道から民俗宗教的、先祖信仰的なものを取り去れば、普遍宗教=人類教になると考えた。

こうした折口の考え方に対して柳田は強く反発した。柳田にとっては、日本の宗教=神道が戦争に負けた原因になったなどとは、まったく考えられないことだった。日本の神道はそもそも戦争を好んだりはしない。というより、日本本来の神は戦争などしない。戦争をけしかけたのは、日本古来の神道ではなく、日本国家であり、その日本国家が独自に作り出した国家神道である。そんなものは、日本古来の本来的な神道のあり方からは全く外れている。

こういう柳田の主張には、神社合祀問題のさいの、国家による強制的な神社の体系化への反発と共通するものがある。柳田は国家による神社神道の体系化が、日本古来の信仰を破壊すると見たわけであるが、それと同じように、国家が国家神道を通じて日本人を戦争にかりたてたのであって、日本古来の先祖神信仰が戦争を鼓舞したわけではないと主張したのである。

いずれにしても、折口の主張に耳を貸すものはいなかった。戦後の日本人は、神道から先祖崇拝の要素を取り除くことで神道を普遍宗教化しようなどとは、(折口以外)誰も思わなかった。一方、柳田が主張してやまなかった日本人の固有信仰としての先祖信仰の再興もまた、なしとげられなかった。日本人は先祖信仰を高めまた深めることはしなかった。というより、宗教というものに対してますます関心を持たなくなっていったと言ってよいのではないか。そういう意味では、神道をめぐる柳田と折口との間の相違などは、ほとんど何の意味をももたないと言ってよいだろう。





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