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遊動論:柄谷行人の柳田国男論


柄谷行人の柳田国男論は、柳田の「山人論」を中核にして展開される。柄谷はそれを展開するにあたって、柳田の学説の変遷についての通説を強く批判することから始める。通説によれば、柳田は山人の研究から始めたが、途中でそれを放棄し、山人とは正反対の稲作定住民=常民の研究へと向かい、晩年はこの常民たる日本人の祖先を海のはるかかなたからやって来た人々とする日本人起源論を主張するようになった。そうした見方に対して柄谷は、柳田は生涯を通じて山人の研究を放棄したことはなかった、むしろ彼が生涯をかけて追及したのは、山人についての思想を深化させることだったと言う。

山人という言葉で柳田は具体的にはどのようなイメージを抱いていたか。柄谷はそれを二つのレベルにわけて説明している。ひとつは実在としての山人であり、もうひとつは思想としての山人である。実在としての山人は、稲作文化以前から日本にもともと住んでいた人々で、新来者に圧迫されて山の中に逃げ込んだものとその子孫がそれにあたる。この意味での山人は、天狗とか妖怪といったかたちで表象されることもあるが、それは新来者としての稲作農民から見ての気味の悪さをあらわしている。要するに、稲作農民とは違った出自を持ち、独特の文化をもった人々を柳田は山人と言ったわけだ。この山人とならんで、もともとは稲作農民だったものが山のなかに入った人々もいる。そうした人々を柳田は山民と呼んで、本来の山人とは区別した。

この実在としての山人についての捉え方は、歴史的な方法といえるが、それと並んで、民俗学的な捉え方もある。それが思想としての山人という捉え方である。山人には、稲作定住民とは著しく異なった生活様式がある。それを単純化して言うと、遊動性である。稲作定住民が定住性を基本として、生活様式をきずいたのに対して、山人は遊動性をもととした独自の生活様式をきずいた。それを簡単に比較していうと、稲作定住民がオヤとコの垂直的な関係をモデルにしたのに対して、山人はユイに見られるような、平等な者同士の水平的な関係をモデルにしているということになる。ユイというのは、人々のあいだでの「自治と相互扶助」あるいは「共同自助」を推進力にした組織のあり方である。オヤとコのモデルが権威主義的で支配―被支配の関係を生み出すのに対して、ユイのモデルは社会主義的な平等の関係を生み出す事ができる。柳田の山人論は、こうした平等な人間関係のあり方を、現代および未来の日本の社会に実現できないかという問題意識に導かれていたのだと柄谷は言うのである。

以上、山人についての二つの位相のうち、柳田はたしかに実在としての山人について語ることはやめたが、思想としての山人が内包する遊動性とかユートピア性については語ることをやめなかった、むしろそれを深化させる方向で語り続けた、と柄谷は言うわけである。柳田は、「後狩詞記」を通じて、椎葉村の山人たちの遊動性とかユートピア性を問題提起して以来、その考えを生涯捨てることはなかった、と言うのである。

柳田は1930年代になって山人とは正反対の常民とか、一国民俗学とかいったことを強調するようになるが、そのことと従来の山人論とはどのようにかかわるのか。柄谷によれば、思想としての山人論に含まれていた遊動性というものが、日本の帝国主義的膨張に利用されるおそれが生じた。遊動性を肯定的に強調することは、日本の植民地主義を合理化しかねなくなったのである。そこで柳田は、自分がそのような風潮に与するようになることを嫌って、遊動性を語らなくなり、ひいては山人についても語らなくなった。それは時代の悪しき潮流に対する柳田なりの抵抗だった。そう柄谷は位置付けてみせるのである。

柳田は戦争末期に「先祖の話」を書く。これは一読して山人論とは何の関係もないように思われるが、実はそうではない。思想としての山人論が、この書物の中でもこだましている、と柄谷は考える。柳田がこの本で展開して見せたのは、日本の固有信仰というものであった。その固有信仰の担い手を柳田は山人だとは言っていないが、その内実をよくよく見てみると、その信仰に山人の考え方が盛られていることがわかる。たとえば、先祖を血縁のつながりに限定せずに、他人もまた家の一員として先祖に列するところなどは、稲作定住民のというより山人の思想を反映している、というのだ。

「先祖の話」のなかでもっとも名高い部分として、戦死した若者とのあいだで養子縁組をして、その若者を先祖としてまつったらどうかという提案がある。こうした提案は、戦死者に対する柳田なりの敬愛の現れだとも思われるが、そもそも山人が抱いていた思想を未来の日本にも生かそういう思いから出ていることだ。血縁ではなく、友愛を通じて人と人とが結びつき、それが歴史を動かしていくというような考え方は、山人の思想の一環をなすものだ。そういう前提があって、このような提案が出て来たのだと柄谷は考えているようなのである。

こうして見て来ると、柄谷の柳田論が、山人論を中核として展開されていることがよく見えて来る。思想としての山人論をよりどころとして柳田の生涯の業績を整序しようというのが柄谷の目論見のように思われる。そこには、共同自助をめぐる柄谷なりの理想もまた介在しているのであろう。この本を読むと、柄谷は自分自身の理想に柳田をスマートにあてはめようとする意欲が伝わって来る。つまり柄谷は、文明の重要なモデルとしての遊動性を自分の思想の枠組みとして提起し、その枠組みの先導者として柳田を位置づけしようとしている。そう伝わって来る。





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