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郷土生活の研究:柳田国男の民俗学方法論


「郷土生活の研究」は、柳田国男が昭和十年に行った講演を骨子としたものだ。その講演の中で柳田は、発足せんとする日本民俗学会に向けて、日本の民俗学研究のとるべき方向のようなものを示唆した。その議論については、常民の研究とか一国民俗学といったものをめざしているという見方が長い間なされてきた。それについては、柳田の研究の転回点となったという評価がさなれたり、あるいはそれまで柳田が強調してきた被抑圧民へのまなざしが後退して、常民を中心とする日本の支配的な文化を強調するようになったといった批判もなされて来た。

常民という言葉は、後期の柳田民俗学のキーワードとして受け取られているが、この講演のなかでは常民という言葉ではなく、平民という言葉が使われている。平民とは庶民というほどの意味であり、貴族や武家など時代の支配者ではなく、国民の大部分を構成していた名もない民衆を指す言葉として使われている。柳田によれば、そういう名もない民衆としての平民こそが、日本古来の文化とか伝統を伝えてきたのである。

一国民俗学は、欧米の民俗学研究と対比しての、日本の民俗学のあり方を特徴づける言葉である。欧米では、今日民俗学の対象とされるものが、二つに分かれていた。一つは国内における古い時代の研究、もうひとつは、植民地を中心とした遅れた世界に生きる人々についての研究である。前者は、キリスト教以前の古層の文化の研究が中心となり、後者は文明化された人々とは異なった生き方をする半文明人の研究が中心となる。

対象の相違にしたがって研究の内容も違って来る。自国内を対象とする場合にはフォークロアの収集を中心とした民俗学という色彩を帯びるのに対して、半文明人を対象とする場合には、民族が表に出るところから民族学の色彩を帯びる。ところが日本の場合には、そのような区別をする必要はない。日本の民俗学はあくまでも、日本の平民の歴史を対象とすべきである。そのような意味で柳田は、日本の民俗学がとるべき立場を一国民俗学という言葉に託したのである。

以上は民俗学が研究範囲とすべき対象についての柳田の説だが、ついでその学問のとるべき方法について柳田は力説する。柳田の基本的な立場は、文書に頼りすぎず、民間に伝わっている口碑を広く採集すべきというものだ。文書には限定された情報しか盛り込まれていない。したがってそれに頼りすぎると、事実の総体が見えてこない。それゆえ限られた部分的な情報をもとにして全体と取り違えるおそれがある。全体像にせまろうとしたら、広く口碑を採集し、それらを帰納しながら、全体像にせまらねばならない、というのが柳田の方法上の特色であった。柳田がこう言うについては、日本には、欧米と異なり、平民によって古い文化がまだまだ損なわれずに保存されており、平民に聞くことによって、それらの文化の総体にせまりうる可能性がまだ十分にあるとの確信があった。

この場合の柳田の方法は徹底して実証主義的なものである。かれは日本中から広く口碑を集め、それらを相互に比較することで、そこから差異や共通点を抽出すれば、日本文化の総体的な認識が可能になると考えていた。この比較を通じた差異や共通点の分析を支えているのが帰納の方法である。帰納を通じて普遍的なものにいたるというのは欧米の実証主義がとる立場だが、それを柳田も意識的に採用するのである。

ところで柳田は、自分の研究の先覚者として何人かの人に言及している。もとよりそれらの先駆者たちは民俗学的な問題意識をもっていたわけではないので、民俗学の先駆者というよりは、学問の先駆者という意味合いが強いのだが、その中で柳田がとくに注目するのは本居宣長と平田篤胤である。本居宣長については、上流階級に伝わって来た文章によるだけでなく、広く民間に伝わる口碑の重要性を指摘したことを評価している。ただ宣長自身は、そう指摘しただけでそれを実践することがなかったといって、柳田は批判するのである。民間の口碑を広く採用したという点では平田篤胤が評価されるべきだと柳田は言う。だが平田の場合には、せっかく民間口碑の重要性を認識しながら、それをかなり恣意的に用いたきらいがあるとも柳田は言っている。「何分にもこの人には、かねて主張せんとする説が既に存し、事実はただその証拠になるものを選び抜いたので、帰納を詮とする我々の態度とは一つではなかった」

柳田によれば、日本には宣長のように民間口碑の重要性を指摘しながらそれを実践しなかったものと、民間口碑を広く採用しながらもそれが恣意に流れたものとの、この二つしか見られなかったことは不幸なことだったというわけである。ただ、民間口碑を広く採集し、後日の研究のために重要な礎を残したものもいないわけではないとして、柳田は「嬉遊笑覧」の作者喜多村筠庭をあげている。「嬉遊笑覧」は民間の風習や言い伝えを広く採集したもので、その点では今日の民俗学研究にも十分役立つものだが、しいて言えば、収集が江戸近郊に偏っているので、日本全体を対象にした帰納が成り立たないことが難点だ、と柳田は批判する。

柳田がこう批判するには相当のわけがある。柳田の信念によれば、遠く離れた土地、たとえば沖縄と東北といった土地の間で似たような事象が見つかることが多いが、それらを相互に比較することで、日本の古い姿が浮かび上がって来る可能性が大きい。その可能性を更に大きくするためにも、資料の採集はなるべく広い範囲に渡らせねばならない。そういう思いがあるからこそ柳田は、「嬉遊笑覧」が採用した採集の範囲の狭さを遺憾に思ったわけであろう。





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