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柳田国男の口承文芸論


柳田国男が「口承文芸史考」を書いたのは昭和二十一年のことだが、その序文で柳田は、この本の目的を、我々日本人の祖先が何を信じ、いかに信じていたかを知ることが一つ、もう一つは日本人がいかに自国の言葉を愛重し、どれほど力を尽してこれを守り立てていたかを尋ね極めることだと言っている。これらの目的を追求するためにも、口承文芸は欠くべからざるものであるが、今日では書かれた文章のみを尊重する気風が強くて、口承文芸に注目するものが少ない。その典型的な例は、記紀を以て日本の神話を代表させる風潮であるが、柳田によれば記紀はそれまで行われていた口承文芸の一部をたまたま保存したものであって、それを以て日本神話の全体をカバーするものではない。日本神話の全貌を明らかにするためには、記紀だけにとらわれず、日本人が口で伝えて来たものに広く目を向ける必要がある。また、我が国にはそうした古い口承の残りがまだいくらも残っており、日本神話解明への豊富な手掛かりを提供してくれるのである。しかしそれも放っておいては速やかに消える運命にある。だからいまのうちに口承文芸を広く研究し、保存しておく必要がある、というのが柳田の基本的な問題意識であったようだ。

柳田はこの本の大部分を口承文芸の分類に費やしている。柳田が分類に拘るわけは、分類に基づく比較こそが科学的な学問の王道との考え方に基づくのだと思う。分類を適正に行うことによって、何が本質的な事柄なのかが明らかになるし、本来違う基準のものをいっしょくたにする誤りからも逃れられる。また、分類の基準が各国で共通になれば、相互の比較も可能になる。違う基準のものを比較することはナンセンスだが、同じ基準をもとにすれば、国や民族の枠を超えた比較もできるようになるわけである。しかして柳田は、口承文芸においては、各国共通の基準がかなりの程度当てはまると考えているようである。もっともこの本の中では、そのことはほのめかされるにとどまり、立ち入った言及はなされてはいない。

この本の中で柳田は、口承文芸を大きく二つに分類している。ひとつは伝説とか神話とかいった、歴史の記憶を盛り込んだものである。もうひとつは、昔話や説話といった、話の面白さを目的としたもので、その意味では人間の作り物であるような架空のものである。

伝説と神話の違いは、伝説が特定の土地と結びつき、その土地でかつて実際にあったことがらの記憶を盛り込んでいるのに対して、神話のほうはもっと広い範囲に流通し、民族の過去の記憶を反映しているものだというふうに、柳田は大雑把に考えているようだ。しかし、神話と伝説との違いを詳細に分析しているわけではなく、また、神話が実際の歴史の記憶をそのままに保存しているわけでもないと考えているようだ。神話が実際の歴史を保存したものだとする考え方は、一時日本の学者たちを席巻したものだが、柳田はそうした考え方には批判的だ。この本の序文のなかでも、神話は歴史ではないと断言しているが、それは書かれた神話としての記紀を実際の歴史であると主張する輩が一時支配的になったことへの批判なのである。

昔話といい説話といい、「はなし」という言葉が含まれているが、この言葉は古くからある言葉ではないと柳田は言う。今日われわれが「はなす」という言葉で意味することを、古い日本語では「かたる」とか「しゃべる」とか言った。「かたる」とは、声を出して語って聞かせる事であり、そこには当然語って聞かせられつつそれを聞く人々を前提としていた。今日「かたる」といえば、詐欺かなんかの不体裁なことがらを連想させるだけになったしまったが、かつては人が人に向かって話しかけることを意味していたのである。こういう事情があってこそ、日本では語りの芸能が大きな発展を見せたわけである。

日本は語りの伝統を最近まで強く残して来た、と柳田は言う。そうした語りの芸能の担い手は盲僧とか瞽女といった人々だった。日本は幸か不幸か盲人の職業が豊富な国柄だったのである。

では昔話と説話の違いはなにか。柳田は話の面白さだけを狙った架空の話を説話と名付け、その中の特定の部分を昔話と名付けている。昔話には一定の様式があって、その様式からはみ出すことは許されない。いわば、形式的な要件があるわけだ。昔話がこのように形式にこだわるところが、他国の昔話との比較を可能にすると柳田は言う。他国でも、日本の昔話と同じような形式的要件を備えた昔話はいくらでも見られる。それらを日本のものと突き合わせることで、昔話の国際比較ができるだろうと柳田は考えているようだ。かつて物語の構造分析というものが流行ったが、それに似たことを柳田は考えていたわけである。

このように整理すると、伝説と説話が基本的に異なっていることがわかる。従来この二つは混同されがちであったが、成り立ちからして違うのだと柳田は言う。「その成り立ちから見て伝説はハナシではなく、その世に伝わっているのはコトであって、コトバではなかったことを感ぜずにはいられない」

つまり伝説は事実を伝える歴史のようなものであるのに対して、説話はただ単に言葉の面白さを狙った遊びだというわけである。





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