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山人考:柳田国男の日本人論


「山人考」は「山の人生」とともに大正十五年に出版されたものだが、実際に書かれたのは、「山の人生」が大正二年以降、「山人考」が大正六年とされている。しかしてこの両者は綿密な関連を有している。柳田は「山の人生」によってたどり着いた仮説を前提にして、「山人考」の言説を展開しているのである。学問的な方法論によれば、「山の人生」では個々の現象をもとに一定の法則性を導き出し、それを仮説として整理した上で、今度は個々の現象を仮説によって説明するというやり方をとっているわけである。

「山の人生」を通じて柳田が導き出した仮説とは次のようなものである。「現在の我々日本国民が、数多の種族の混成だということは、実はまだ完全には立証せられたわけでもないようでありますが、私の研究はそれをすでに動かぬ通説となったものとして、すなわちこれを発足点といたします」

こう言って柳田は、日本人の祖先とは、我々現代人に直接つながる種族の他に、それらが日本にやって来る前から住んでいた原住民とも言うべき人々が既に存在していて、それらが日本の各地にわずかな命脈を保っている。その一部を我々は、山人とか、あるいは天狗とか、言っているのだというのである。

このように前提すると、さまざまな事柄が腑に落ちるように説明できる。いままでは、互いにバラバラで関連がないように見えた事象も、この前提から出発すれば、相互に関連を持ち、また論理的にも無理のない説明が出来る。前提から論理的に無理のない説明を導き出すのは「演繹」と言われており、その前提を導き出すための作業を「帰納」と称しているが、柳田はこの両者を無理なく結合することで、日本人の起源に関する彼なりの体系的な説明を展開しているのである。

こうして柳田は、自分なりの前提(仮説)から出発して、日本人の祖先に関わりがあると思われるさまざまな事象を説明し、基礎づけていく。それを展開して見せたのが、この「山人考」なのである。

まず柳田は、我が朝廷の祖先がこの島に到着したときには、国内にはすでに幾多の先住民がいて、それらが古代の様々な記録で「国つ神」と呼ばれたことを指摘する。記紀神話を始め古代の記録には、神武天皇の東征や日本武尊の異種族討伐の話が出てくるが、それらは新たに日本にやってきた種族(我々現代人の直接の祖先)が従来からこの国に住まいしていた原住民を服属させた過程を物語っている。そして、その服属の動きは前九年後三年の時代に至ってようやく完結を見たとするのである。

その服属の過程で、原住民たちの大部分は常民(新たにやってきた人々)に混同し、残りは逃れて山の中に入って行ったのではないか。その子孫がいまだに生きていて、我々は彼らを山人とか天狗とか言うようになったのではないか。

これが柳田の描き出す基本的なストーリーである。そのストーリーに沿った形で、様々な事象が手際よく説明されていく。

まず、鬼。これは人間とは異なったイメージで表象される事が多いが、よくよく分析してみると、山中に暮らしている山人をそのように呼んだと思われるフシがある。むしろそう思ったほうが、納得の出来る説明が出来る。

鬼の変形として天狗がある。これも山人をそのようにイメージしたのであって、別に怪物というわけではない。山男、山女と呼ばれるものも、ほとんどがこの山人をさしていると考えられる。山男や山女になると、そのイメージはぐっと人間に近づいてきて、なかには人間と積極的に交渉を試みる者も現れる。各地に伝わる山男とか山女の伝説は、そうした交渉を物語っていると思われる。

神隠しの話は日本中に認められるが、それはおそらく人間が山人によって連れ去られたり、あるいは精神疾患のある人間が山の中に入っていって、山人に交わったことを反映しているのではないか。というのも、山人といえども人間としての欲望を持っている。その最たるものは配偶を得たいという欲望であるが、そうでなくても人恋しさのような感情は持っているだろう。そこで人間を山の中に迎えて親しくしたいと思うようなことは十分に考えられるというのである。

最後に柳田は、原住民についてのイメージが北ヨーロッパのキリスト教社会と日本とでは正反対の方向を向いていることに注目する。北ヨーロッパのキリスト教社会では、先住民は小人のイメージで表象されることが多い。それに対して日本の山人は大男あるいは巨人のイメージで表象される。それはどういう理由からか。柳田はここでは、差異を指摘するだけで、詳しい分析は行っていない。





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