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根の国の話:柳田国男の日本人起源論


柳田国男は「海神宮考」において、根の国とは我々現代人が思っているような地下深い世界をもともとさしていたのではなく、海の遙か彼方、我々日本人の祖先がそこからやって来た故郷をさしていたのだということをほのめかしていたが、「根の国の話」ではその仮説を更に詳しく検討している。

柳田はまず、日本の西端、肥前の下五島にある三井楽(みいらく)という岬を取りあげて、それを根の国についての考察の手がかりにする。柳田はこの「ミイラク」が「ミミラク」の転訛した形ではないかと推測する。「ミミラク」というのは、海上遙か彼方にあって、死者の赴くところでもあり、またそこから死者が現世にやってくるところであり、その意味では「根の国」と同じものである。

柳田は言う。「単にミミラクの島という名が文献に現れないだけで、日本に古くから伝わっている死者の国、それもはるか海の彼方に隔絶して、稀々に生者も往き通うと信じられていた第二の世界が、我々の古典においてはネノクニであり、またはネノカタスクニとも呼ばれており、それとミミラクとの繋がりは説明し得られる。故に、それを日本の西の西端、外国にわたる境の地、是非とも船がかりをしなければならぬ御崎の名にしたのにも、埋もれたる意味があるのではないか」

つまり柳田は、ミイラクがミミラクの転訛した形であり、それが本土におけるネノクニと同じ意味を持っていると考えたのだが、その意味とはミミラクにしろネノクニにしろ、海上遙か彼方にあって、死者たちが現世との間を往来するところということだった。そして、その死者たちとは我々の祖先として、はじめてこの国に渡ってきた人々を含んだものだった。それら死者たちの赴くところとは、死者たちがそこからやってきたところ、すなわち我々日本人のそもそもの本源の地だったのではないか。そう柳田は考えるのである。ネノクニの根が本願を意味することは、「海神宮考」で触れられていたことだ。

ところで、そもそも本源という意味であったネノクニが、地下のイメージと結びついたのは、漢字の影響だろうと柳田は考えている。日本人は、漢字を取り入れるにあたって、本来の日本語に対応する、意味の近い漢字をあてたわけだが、そうすることで、単に日本語を便利に言い表すということを越えて、日本語のほうが漢字の意味に引っ張られるということもおこった。ネノクニはその代表的な事例で、もともとは本源とか出発点とかいう意味だったものが、漢字固有の意味に引っ張られて、地下の世界をイメージさせるようになってしまったと言うのである。

ネノクニのネと共通する語根を持つ言葉としてニーラスクというものがある。八重山の言葉であるが、ニーの部分がネの転訛した形と考えられる。そのニーを含むニーラスクという言葉は海のはるか彼方から吹いてくる風という意味を持つ。つまり、ネノクニから吹いてくる風という意味だ。だからこの言葉も、ネノクニが海の遙か彼方にあるという古代以来の日本人の思い込みを反映しているわけである。

海のはるか彼方からやってくるのは風のみではない。稲も又大昔に海の遙か彼方からやって来たと考えられていた。柳田が推測するに、稲はニーラの島つまりネノクニから、遠い昔に送り届けられた神聖なる作物だったというのである。柳田は言う。「稲という穀物の根源がニルヤにあり、これを繁茂せしめて人間の力と幸福とを、豊かにすることが本来の機能であったのかもしれず、いわば南島の根の国が、単なる亡者の隠れ行くところであるに止まらず、絶えずこれから流れ出て、現世を楽しく明るくするものの、ここが主要なる源頭であることを、かつて我々は南北共同に、信じていた時代があったのではないか」

柳田が稲にこだわるのは、日本に稲をもたらした人々こそが我々日本人の祖先だったと考えるからだ。柳田は別稿「稲の産屋」において、日本人がいかに稲に対して宗教的な関心を抱いてきたかについて縷々検討しているが、そのわけは、日本人の祖先は稲とともに日本列島にやって来たという事実に根ざしていると柳田は考えるのである。つまり日本人にとって稲は、単に貴重な食料であるのみならず、自分たちのルーツを想起させるものだったのであり、その意味では神聖な作物だったのである。

以上を踏まえて柳田は、この小論の内容を次のように要約する。「三井楽という地名の考証に私は最初南島のニルヤ・カナヤが、神代巻のいわゆる根の国と、根本一つの言葉であり信仰であることを説くとともに、それが海上の故郷であるがゆえに、単に現世において健闘した人々のために、安らかな休息の地を約束するばかりでなく、なおくさぐさの厚意と声援とを送り届けようとする精霊が止住し往来する拠点であると、昔の人々は信じていたらしいこと、その恩恵の永続を確かめんがために、毎年心を籠め身を浄くして、稲という作物の栽培を繰り返し、その成果をもって人生の幸福の目盛りとする、古来の習わしがあったということを考えてみようとした」

なお柳田は、我々の祖先が日本列島にやってきたのは、まずは南西諸島への上陸から始まると考えている。それも南西諸島の南の先端である宮古島が、日本人の祖先の最初に上陸したところだろうと考えている。その彼らが次第に北上し、やがては日本本土にも到着して、そこに稲の文化を咲かせたということになりそうである。この書の冒頭の文章「海上の道」では、我々の祖先が日本にやって来たのは、宝貝の魅力に惹かれたことが大きかったと言っていたが、この文章「根の国の話」では宝貝への言及はない。もっぱら稲を中心にして、日本人の祖先の行動を跡づけている。





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