日本語と日本文化
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海神宮考:柳田国男の日本人起源論


「海神宮考」は民間説話を手がかりにして日本人の遠い祖先について考えようとするものである。柳田がここで取り上げる民間説話は、別世界訪問とか仙境淹留譚とか呼ばれるものである。このタイプの説話は、日本の本土においては浦島伝説とか、さらにそれ以前にさかのぼる海幸山幸説話という形で、古くから語りつがれてきた。一方、宝海峡(トカラ列島のあたり)以南の南西諸島においては、ニライカナイとかニルヤとか言われる境域との往来をテーマにした物語が広く分布している。柳田はこれらを相互に比較することで、その類似と差異を明らかにし、そこから日本人の祖先たちの考え方を推測しようとする。その結果、日本人は遙かな昔から海の彼方に深い関心を払っていたことが浮かび上がってくるはずだと考えるわけである。

浦島伝説は万葉集にも載っているから、非常に古い説話だったことがわかる。この伝説には竜宮城が出てくるが、これは仏教が入ってきたことによる影響で、古い形の説話の原型には出てこなかったろうと柳田は推測する。その証拠に龍宮と言いながら、龍は出てこずに、乙姫が出てくる。これは龍宮という言葉だけを借りたので、そのことによって物語の枠組にはほとんど変化がなかったというのだ。

浦島伝説は、万葉集以前に、雄略天皇紀にも出てくる。そこでは龍宮ではなく、蓬莱山が舞台になっていて、それをトコヨノクニと訓している。柳田は、蓬莱が龍宮以上の外来語であると指摘するとともに、トコヨノクニにも文化の香りがあり、最初からの民間の言葉ではなかったろうと推測する。

それはともかく、浦島伝説から浮かび上がるのは、海の底あるいは遙か彼方の海上の島がある種の楽園のように描かれていることであって、そこから古代の日本人が海に対して強いあこがれをもっていたらしいということがわかる。

海へのあこがれは、古事記の海幸山幸説話にも現れている。ここでも海幸は海底の国に案内され、そこで夢のような暮らしをすることになっている。これは海を理想化するという点で、浦島伝説と同じパターンの話である。こういうパターンの話が、日本の古い文献に複数収録されていることは、我々日本人の遠い祖先たちが、海に対して強い関心をもっていたことをあらわしているのではないか。そう柳田は推論するわけである。

一方南西諸島に広く分布しているのは、ニライカナイとかニルヤをめぐるものである。ニライカナイはギライカナイとも言い、またニルヤはニラともいうが、これらの言葉はもともと同じ言葉から派生したものだろうと柳田は考える。南西諸島では、根のことをニーとかネとかいうが、そのニーなりネなりから、これらの言葉が派生したと言うのだ。ニルヤは根屋をあらわし、ニライカナイも根の国をあらわす。ニライカナイと言っても、ニライとカナイの二つがあるわけではなく、単にニライを強調するために、言葉を重ねただけだと言う。南西諸島では、なにかを強調したいときに、言葉を重ねる風習があるというのだ。この言葉を重ねて物事を強調するのは、東アジアに共通する文化ということらしい。

さてそのニライカナイであるが、これは龍宮のように垂直的な海底のイメージではなく、遙か海の彼方といった水平的なイメージで捉えられていた。同じく異界でありながら、本土では垂直的なイメージとして、南西諸島では水平的なイメージとして、それぞれ異なって表象されるようになったのは何故なのか。この疑問に対して柳田は、「多分は信仰変革の時期、ことにその方式様態が、双方比べものにならぬほど違っていたためで、始めから別だったのではないという証拠は、まだ幾つでも挙げられ得られる」と答える。

ニライカナイやニルヤの語源となった「根」を意味する言葉は、根という漢字が想起させるような、地下のイメージはもともとなかったという。「根」を意味する言葉の本義は、本源とか基底といった意味だった。ということは、南西諸島の人々にとってのニライカナイとは、自分たちがそこからやってきたそもそもの本源の地を意味したということになる。自分たちがそこからやってきた故郷のようなところ、それを南西諸島の人々は「根の国」としてのニライカナイとかニルヤと呼んだというのである。

こうした本源としてのイメージは、本土の民間説話には希薄であるように思える。浦島伝説にしろ、海幸山幸説話にしろ、そこには自分たちの本源あるいは故郷として、龍宮やトコヨノクニが表象されているわけではない。本土と南西諸島と、両者の間の差異は、これもまたおそらく双方が独自の文化的な進化をとげた結果だろうと柳田は推測しているようである。

このように本土と南西諸島ではかなりな差異があるが、そもそもの始めの形は南西諸島のほうがよりよく保存しているのではないか、そう柳田は考えているようである。そう考えることの根拠を、柳田は十分に説明し切れているとは言えないが、本土のほうが文化的な変遷が激しく、説話の内容も変わりやすかったのに対して、南西諸島は比較的変化に乏しく、したがって説話の内容も変わりづらかったからではないかと推測しているようである。

南西諸島の人々が、ニライカナイとかニルヤという言葉で表象していた海の彼方の自分たちの故郷のイメージは、何故か南の方角ではなく、東の方角に当たっている。これは日本の伊勢信仰がやはり東のほうを重視しているのと同じである。このことの原因として柳田は、とりあえず沖縄を始めとして南西諸島における海洋の行き来が、それぞれの島の東海岸沿いに行われた名残ではないかと推測している。人々は島の東から上陸した。それゆえに彼らにとっての古里のイメージは、東の海と結びついたのではないかというのである。これにはたいした根拠があるわけではないようなので、柳田の個人的な思い入れがかなり混じった解釈なのだと思う。

東の海が重視された結果、故郷のイメージは太陽と結びついた。それは伊勢信仰において太陽がことのほか重視されるのとパラレルな現象である。また、南西諸島では特に、稲の伝播も東からもたらされたということになっている。これは、古里のイメージが東の海に結びついた結果で、自分たちの祖先が稲とともに東の海からやってきたという信仰を言い表しているのだと思う。

東が特別に重視された結果として、東方浄土観が生まれた。東方浄土観は弥勒信仰と結びついたが、これは在来の土着の信仰が仏教の影響を受けて変容した例であって、日本人がいかに東の海にこだわってきたかをよく物語る例である。

以上紹介した柳田の議論は、本土と南西諸島に伝わる民間説話をもとにして、日本人の祖先がどこからやってきたかという大いなる問題意識の解明に、柳田なりに手がかりを求めようとする試みである。その手続きにとっては、膨大な量の事象の収集が欠かせない。柳田としては、十分な量の資料を集めたうえで、それらを相互に比較したり、総合したりして、一定の蓋然性をともなった仮説の証明をしてみたい、そういう研究態度を心がけていた。柳田が一番嫌うのは、たいした根拠もなく仮説を設定し、それがあたかも疑いの余地のないことがらのような顔をして、強引に事象の説明をするような態度であった。そういう態度を、柳田は次のような言葉で戒めている。

「自分は元来問題を永く温め、やたらに青刈りをせぬという修養を心がけた者であるが、今や残んの日も既に乏しく、しかも近年の学風は、教理の本源を究むるにもっぱらなるあまり、往々にして国内千数百年の変遷を挙げて、すべて零落の姿のごとく、見てしまおうとする傾きを示している」(「みろくの船」から)





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