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日本人の他界観:折口信夫の思想


日本人の他界観についての折口の考え方は、日本人の死生観と深くかかわりながら展開されている。折口は、人間が他界の観念を持つようになった理由は、人間が死ぬるものだからだと言っている。人間が死ぬるものなら、死後それがどのようになるのか、という疑問が生まれて来る。他界とは、その疑問に答えるものなのである。

こう考えれば、他界の観念は、日本人に特有のものではないということになる。どんな民族でも、人はみな死ぬるからだ。しかし、折口は、他界観についての民族間の比較はしていない。あくまでも日本人の他界観に限定して考えている。他界観というのは、死生観と深く連動しており、その死生観が民族によって異なるなら、とりあえずは、日本人の死生観と他界観とについて考えるのが筋だろう、と折口は考えたようである。

日本人の抱く他界のイメージは二つあると折口は言う。一つは高天原に象徴されるような、天国のようなイメージである。もう一つは、その正反対で、いわば地獄のようなイメージである。他界がこのように分裂してイメージされるのは、そこに死生観が反映されているからだ。寿命を全うして死んだ人は、神となって天国に昇華し、子孫の安寧のために色々と気をつかってくれる。かれらは毎年天国からこの世にやって来ては、子孫のために繁栄を予祝してくれるのだ。

これに対して、寿命を全う出来なかった人は、浮かばれて天国に行くことができない。そういう人たちのために日本人は、地獄とかそれに近い他界のイメージを考え出した。賽の河原などはその代表的なものである。寿命を全うできなかった人々は、様々な怨念をもっている。だから彼らは怨霊となって、我々生きている人に災いをもたらす。その災いから逃れるために、日本人は怨霊を慰撫するためのさまざまな行事を執り行ってきた。祇園祭りなどは、そうした怨霊慰撫のため始められたものだったのである。

天国のようなイメージは高天原に代表されるが、これは神話と深く関連しており、その神話が天皇家と結びついているので、やや複雑なところがある。高天原は、天皇家の祖先たる神がいるところであって、その神がこの世に降臨することで、日本の国が成り立った。歴代の天皇は、最初に降臨した神(ニニゴノミコト)の子孫として、自身日の御子としての資格において、神そのものなのである。

その高天原に、寿命を全うした普通の日本人も、神となって昇華すると考えられた。だから高天原は、天皇家の祖先としての神が住まう所であるとともに、神となった先祖が住まう所でもある、と折口は言う。高天原を天国と言い換えれば、こうした天国の二重性は、非常にユニークなものだといえる。すくなくとも、ユダヤ・キリスト教的な天国のイメージとは大きく異なっている。ユダヤ・キリスト教の天国は、神が主催するところで、信仰の厚かった人々が死後に迎えられるところである。それ故、非常に単純なイメージで考えられている。ところが日本の高天原は、先にも言ったように、天皇家の祖先が住まうところであるとともに寿命を全うした人々が神となって赴くところなのである。それは、そこから天皇の祖先がやってきたところであり、寿命を全うした人々が死後に赴くところでもあるのだ。

いづれにしても、日本人にとっての天国は、この世との連続において考えられている。天皇家の祖先が住むところなのであるから、しかもその祖先は今でも生きて疑似人間的な活動をしていると考えられているから、その点でこの世と深いかかわりを持つ。そのうえ、そこに神となって赴いた我々の先祖も、そこに安住してこの世との関係から断絶するのではなく、ときたま我々の前に現われて、我々の幸福を祈ってくれる。つまり、我々日本人の抱くあの世=天国のイメージは、この世と深くかかわっているわけである。このかかわり方に、日本人の他界観のユニークさが強く刻まれている。

高天原というと、言葉からして天上のイメージが思い浮かぶ。しかし日本人にとってそもそも、あの世=他界のイメージは、海のはるか彼方であったはずだと折口はいう。沖縄にはそのイメージが今でも残っており、それを沖縄の人々はニライカナイとかギライカナイとか言っているが、太古には内地の日本人も同じような考え方をしていたに違いないと折口は言うのだ。その要因としては、日本人の祖先が、はるか海の彼方からこの国へやって来たという事情が働いているのだろう。それが、いつの間にか、他界が天井にあるとイメージされるようになった。その要因には、日本人が海岸を離れて内陸部に異動したことが大いに働いている。また、海上遥か彼方のイメージは、水平線のところで大空と溶け合っている。そこから、海と空とは一体だというような考えが生まれ、それをもとに海の彼方のイメージが、天上のイメージに移行していった、というような推測を折口はしている。いずれにしても折口は、日本人の抑々初めの他界のイメージは海の彼方であり、それが天上のイメージに移行していったのだろうと考えているのである。

天国が天上に設定されると、我々の先祖の霊は、天上から山を伝って下界へ下りて来ると思念されるようになる。今日に伝わる祭りの行事は、こうした考えをもとに組み立てられているのである。もし他界が海の彼方のままに思念されていたら、祭りの仕方も大分変ったものになったはずだ。

一方、寿命を全うできなかった人や、悪行を働いた人は、死後天国に迎えられることがなく、地獄へ落ちると考えられている。しかし、この地獄というイメージは、仏教の影響を強く受けているので、日本人はもともとはそのようには考えていなかった。天国へ行けない人の霊は、地獄へ落ちるのではなく、この世の近くにあるどこかの場所にさまよい続けると考えられた。賽の河原はそうした場所の最たるものだが、この言葉も仏教的な響きがするので、誤解を招きやすい。賽の河原とは、古代の言葉で言う「さへのかみ」と関連した言葉で、意味するところは境界であった。その境界のイメージがこの世とあの世の境のイメージに結びつき、天国にいけない霊がさまよい集まる場所だと考えられたのである。

この天国に行けない人々のうち、折口が専ら着目しているのは、若くして、つまり成人になる前に死んだ人たちである。人間にとって成人になるということは、一人前の人間になることを意味していた。一人前になりえずに死んだ人は、中途半端な人間として、この世にわだかまりを抱き続ける。そのわだかまりが、かれらを、この世とあの世の境である賽の河原にさまよわせる原因なのだ、と折口は言うのである。




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