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折口信夫の翁発生論


能楽には「翁」という演目がある。いまでも正月には必ず演じられているほか、流派家元の重要行事の際にも演じられるなど、特別の意義を付与されている。この「翁」を折口信夫は民俗学的な視点から解説しているのであるが、その論旨を簡単に言えば、翁とは折口のいうところの「常世人」あるいは「まれびと」が芸能化したものだということになる。

能楽は、猿楽と田楽が統合して成立したものである。その猿楽にも翁舞というものがあって、それが能楽の翁の直前の姿である。その猿楽は田楽から発展したものであった。田楽とは、春の田植えまつりに付随して行われる一種の神事「田遊び」から発展したもので、この田遊びにおける翁舞が能楽の翁のそもそもの始まりだったと折口は見ている。

田遊びの翁は、尉となって、姥をともなって出て来た。この尉が翁であるのだが、それが翁とよばれたのは、一座の主人である年長者がこれを演じたことに由来したらしい。一座の年長者である翁が、田遊びにおいて、豊穣の実りを予祝して舞う、それが翁の原始的な姿だったというのが、折口の主張である。

この翁に象徴されるものこそ、「常世人」あるいは「まれびと」だったわけである。常世人は、そもそもの始まりにおいては、海の彼方からやって来るものと思量されていたが、やがて山の上からやって来るといった風に変わってきた。田遊びにおける尉と姥も山からやって来るということから、山人・山姥と呼ばれていたのである。その山人たちが、里へ下りて来て、田植えに際して、豊穣の実りを予祝して舞ったのが、翁舞のそもそもの始まりなのだ。

常世が海から山へと移動した背景には、海人たちが山へと移動したという事実が背景として働いていたとするのが折口の主張であるが、その説明はやや錯綜していて、かならずしも明確ではない。ともあれ、翁が初めて芸能として成立した頃には、翁は山の上からやってきて、里の人々のために幸福を予祝することを、役割として期待されていたということである。

現行の能楽における「翁」は、翁の舞、千歳の反閇、黒尉の三番叟からなっている。それらの相互の関係を折口は次のように整理している。「翁が出て、いはひ詞を奏する。此は上の主長を寿するのです。其後に、反閇の千歳が出て、詠じながら踏み踊る。殿舎を鎮めるのです。其次に、黒尉の三番叟が出て、翁の咒詞や、千歳の所作に対して、滑稽を交へながら、通訳式の動作をする。其が村の生業の祝福にもなる」(翁の発生)

ここで翁と千歳と黒尉とがセットになっているのは、日本の芸能の伝統である「もどき」の一例だと折口は言う。もどきの定義についてあれこれと言っているが、要するに主なる芸能に対して、それを相対化するための装置であるらしい。多くは、主なる芸能を茶化したり、通訳することにその役目がある。能楽においては、ワキと狂言はいずれも、このもどきとして出発したと折口はいっている。

もどきということでは、猿楽もまた田楽における翁舞へのもどきとして始まったとも折口はいっている。その猿楽が、優雅な舞である曲舞と結びついて、今日に続く能楽が出来上がったわけだ。

秋田の「まなはげ」に代表されるような鬼にまつわる風習は、一見翁舞とは無関係に見えるが、深いところでつながっていると折口は推測する。「なまはげ」という言葉は、「なもみはぎ」が転訛したもので、「なもみ」すなわち「火だこ」を剥がすと言う意味だ。火だこは火のそばから離れないナマケモノにできる。だから「なまはげ」は、なまけものを退治することを役割としているわけだ。

このなまはげを行う鬼も又、山から出て来て人々の幸福を予祝するという点では、翁と同じことをしているわけである。折口は言う、「此等の山の神に扮する神人たちの、宣命・告白を目的とした群行の中心が鬼であり、翁であり、又変じて、唯の神人の尉殿、或は乞士としての太夫であったのは、当然であります。翁及び翁の分化した役人が、此宣命を主とする理由はわかりましょう」(同)




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