日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板




餓鬼阿弥蘇生譚:折口信夫の霊魂談義


折口信夫は小論「餓鬼阿弥蘇生譚」で、説経「小栗判官」の蘇生譚を取り上げている。この説経のテクストには多くの異本があるらしいが、折口はもっとも正統なものとして国書刊行会本を取り上げ、それにもとづいて、小栗の餓鬼阿弥としての蘇生を論じている。その論旨は、この蘇生譚に日本人古来の霊魂観が込められているというものだ。

この話は、地獄へ落ちた小栗主従が閻魔大王の許しを得てこの世に蘇生するについて、家来たちは火葬されために、霊魂がとりつくべき肉体がないことが原因で蘇生できず、ひとり土葬されて遺体が残っている小栗だけが蘇生するということになっている。これを単純に受け取ると、霊魂と肉体との結びつきというイメージが浮かび上がって来る。霊魂はそもそも肉体から遊離しやすいものだが、肉体がなくなってしまうと帰るべき拠りどころがなくなってしまう。それは肉体にとっての死のみならず、霊魂にとっての死を意味する、といった日本人の考え方が、そこには盛り込まれていると折口は言うのだ。

小栗の霊魂は、土葬されていた骸と結びつくことによって、生きた人間として生き返る。しかしとりついた骸が破損していたために、脚はなえて動かないし、耳は聞こえず目は見えない。不具のありさまなのである。その不具を熊野本宮の湯につかることによって克服し、完全な人間になるというのが、この蘇生譚の要諦である。この不具は、遺体が土葬から日が経って損壊が進んだことで説明できることだが、折口は別の見方をしている。遺体が損壊したのは、自然のプロセスによるというよりも、人間の手によってわざとなされたのではないかと言うのである。

古代の日本人は、人が死んだ後は、霊魂が速やかにあの世へ旅立つことを願った。ところが霊魂というものは未練たっぷりなもので、たえず肉体との結びつきを求めている。そこで、霊魂のすみやかな旅立ちをうながすために、古代の人々は、霊魂が肉体と結びつくのを妨げる工夫をした。散骨とか洗骨とかいう儀式はそれにあたる。骨をバラバラにすることで、霊魂のよりどころを絶ったわけだ。日本人が火葬を文化として速やかに受け入れたことにはさまざまな説明があるが、折口は霊魂と肉体との結びつきを妨げるための便法として古代の人々に採用されたのではないかと憶測している。火葬は肉体損壊の究極の方法であるから、霊魂はもはやとりつくべき肉体をもたないのである。

ところが、霊魂はそれであきらめてくれるばかりではない。自分自身の肉体にとりつくことができなければ、他人の骸にとりついて人間として生き返ろうとする。だから、そういう霊魂の執着を絶つためには、別の工夫が必要になる。霊魂が安らかにあの世へ旅立てるような条件を提供してやるのである。折口は、聖徳太子が傍丘に飢えて死んだ人を見て着物をかぶせてやったという伝説を引用しながら、死者に丁寧な儀式を捧げることで、霊魂の安らかな旅立ちを願うようになったと推測している。ぬさは本来その道具であって、霊魂をなだめることに目的があった。なだめられない霊魂は、いつまでも浮かばれず、他人の骸に取りついたり、場合によっては生きている人間に取りつくことともなる。それは古代人にとってはゆゆしきことであった。

とりあえず骸に取りついた小栗の霊魂は、不完全な人間として復活したわけだが、その不具の姿というか、異形が、餓鬼を思わせるところから餓鬼阿弥と呼ばれた。折口は、この餓鬼というものを、日本古来の霊魂が仏教と習合して出来上がったイメージだろうと推測している。日本人が外来の観念を導入するときには、日本古来の類似のものにことよせて導入するというのが普通で、まったく新奇な観念は根付くことがないと折口は言っている。餓鬼は仏教由来の観念だが、それに日本古来の浮かばれぬ霊魂のイメージが結びついた。浮かばれぬ霊魂は餓鬼となって、生きた人間につきまとい、餓鬼草紙にあるような、人間の糞便をありがたがるような行動をとるわけである。

以上は「餓鬼阿弥蘇生譚」における折口の議論であるが、餓鬼阿弥の蘇生を理解するには、ほかにいくつかの視点が必要だとして、「小栗外伝」のなかで、それらの視点を提起している。蛇子型民話との関連、魂と肉体との交渉、乞食と病気との連絡などで、いずれも面白い着想だが、ここでは乞食と病気の視点について取り上げたい。

餓鬼阿弥として生きかえった小栗は、土車に乗せられて熊野めざして運ばれてゆく。この土車というのは、昔は乞食の乗り物として表象されていたものである。乞食が土車に乗るのは、無論特権として許されていたということもあるが、基本的には、乞食が定着せず旅行したためである。乞食は土車に乗って各地を旅行・放浪し、食を乞いながら生き永らえていたのである。

実際のところは、土車に乗るのはらい病患者だっただろうと折口は言う。そこから餓鬼病みというような言葉も生まれた。餓鬼阿弥(あみ)のほうは時宗の法号だが、それが小栗と結びついたのは、時宗の乞食坊主たちの一団が、小栗の話を自分たちの得意として流布して歩いたことを物語っているのではないか、と折口は推測している。こうした折口の推測には、実証的な裏付けがあるわけではないが、着眼点としては非常に面白い。




HOME 日本の民族学思想 折口信夫次へ







作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2015-2018
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである