日本語と日本文化


南方熊楠の粘菌研究


南方熊楠は少年時代から博物学に興味を覚え、植物標本とりわけ隠花植物や菌類の標本を作っては喜んでいた。そして青年期にアメリカやイギリスを放浪するうちに、粘菌に大いなる関心を覚え、その方面では、専門家からも一目置かれるような存在になった。熊楠の生涯は、民俗学的なテーマと並んで、粘菌の研究に捧げられたともいえる。彼の生涯のうちの大事件、神社合祀反対運動の如きも、神社合祀に名を借りて神林が広範に伐採され、粘菌をはじめとした貴重な自然が破壊されることへの危機感から立ち上がったことであった。

自分が博物学に打ち込むようになった動機について、熊楠は柳田国男宛書簡の中で次のように書いている。

「小生は元来はなはだしき癇癪持ちにて、狂人になること人々患えたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて身を入るるもつまらず、宜しく遊戯同様の面白き学問より始むべしと思い、博物標本を自ら集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また癇癪など少しも起さば、解剖等微細の研究は一つもならず、この方法にて癇癪をおさうるになれて今日まで狂人にならざりし」

一つには、博物標本をつくることで、生来の病質であった癇癪を抑えることが出来たということ、もう一つには、それが面白かったということが、粘菌研究に打ち込むようになった理由としてあげられている。この二者のうち本質的なのは後者の方だろう。学問というものは、それが喜びとなってこそ、前進していくものなのだ。ただ単に、自分の職業として学問をするだけでは、学問の進歩には限界がある。学問が限界を超えて進むためには、学問する人をして、それを喜びと感じさせるようなものが、動因として働かねばならない。熊楠は、粘菌の研究に絶えせぬ喜びを感じたがゆえに、素人でありながら、専門家をもうならせるような成果を上げることが出来たのであろう。

熊楠が粘菌の研究を始めた頃、学界では、粘菌をその名のごとく菌類の一つと位置付けるのが主流だった。粘菌とはミクソミテケス、つまり「粘る菌」だったわけである。「粘る菌」というのは、粘菌のライフサイクルの一部分に注目した命名だった。粘菌も他の菌類と同様、鮮やかな子実体を形成し、胞子を飛ばす。ところが飛んだ胞子からはアメーバのようなものが出現し、それらが集合して変形体を形作る。その変形体がべとべとと粘っているところから粘菌と名付けられたわけだが、不思議なのはこの変形体の行動なのである。すなわち、この変形体は、周囲のバクテリアなどの生き物を捉えて、「食べる」という行動をとるのである。

菌類でありながら、「食べる」という動物的な行動をするのはどういうわけか。当時の博物学者の関心はここに集中した。ドイツの学者デ・バリーは、粘菌が実は原始的な動物ではないかとして、それに「動菌」すなわち動物と菌類とのあいの子と言う意味の名称を与えたが、粘菌が動物の一種であるとする意見は少数派だった。そういう中で熊楠は粘菌が原始動物であるとはっきり言明したのである。

当時の博物学にあっては、複数の細胞からなる生物は大きく三つに分類されていた。植物、動物、そして菌類である。分類の根拠にされたのは、栄養摂取のあり方だった。光合成を通じて自らの体内で栄養を作り出すのが植物、自らは栄養を作れず、他の生き物を摂食することで栄養をとるものを動物といった。一方、菌類は光合成をおこなわず、ほかの有機体を分解することで栄養を摂取する。形の上では植物であることを思わせるが、光合成をおこなわず他者を分解摂取する点では動物と似ている。違うところは、他の有機体を「食べる」のではなく、分解するという点だ。その点では捕食植物を変りはない。

この基準に粘菌を当てはめるとどういうことになるのか。粘菌は変形体として、バクテリアなどの生物をつかまえて、それを食べている。ほかの菌類のように分解しているのではなく食べている。そのことから見ると、動物であるといえる。しかし胞子を形成している時期は、どうみても他の菌類と異なるところはない。そんなわけで、分類の基準に判然と当てはまらない。つまり境界域の生物でなのである。問題はその境界域を、動物に引き寄せて考えるのか、菌類に引き寄せて考えるのか、ということである。前者ならば「菌類のような動物」ということになり、後者ならば「動物のような菌類」ということになる。

この分類方法は、一見合理的に見えるが、よくよく考えれば必ずしもそうではない。というのも、この分類は、動物、植物、菌類の分類基準を絶対的なものとして前提しているからだ。しかしそうした前提が絶対に正しいとはいえないかもしれない。

ともあれ熊楠自身は粘菌を原始動物と結論付けた。そうすることで、粘菌と他の動物とを共通の土台に載せて、原始動物から様々な動物がどのように進化して行くか、その生命の進化のありさまを大きな角度からとらえようと考えたわけである。

熊楠は粘菌の活動をよくよく観察すれば、動物の生命の秘密が目に見えてわかるようになるはずだいって、次のように書いている。

「一体、粘菌は他の原始動物とかわり、その原形体非常に大にして、肉眼で観察しながらいろいろの学術上貴重の試験を行い得。人間の児孫繁殖のことを精査せんとするも、眼前男女を交会せしむることはならず。他の活動植物とても、たとい雌雄交会せしむることは得るとしても、その際及びその際以後、男女の精液(すなわち原形体)の変化を生きたまま透視することならず、わずかに薬汁で固めたり、解剖して半死になったところを鏡検するのみなり。しかるに、この原形体は非常に大にして、肉眼またはちょっとした虫眼鏡で生きたまま、その種々の生態変化を視察し得。故に生物繁殖、遺伝等に関する研究を子細にせんとならば、粘菌の原形体についてするが第一手近しと愚考す」(菌学に関する南方先生の書簡)

ここで南方がいっているのは、粘菌の原形体が原始的な生命なるのみならず、生命一般の起源であるということだ。しかもそれは幸いなことに、肉眼や虫眼鏡で観察可能なほどの大きさを持っている。それを子細に観察すれば、食を始め生命の秘密の多くの部分が明らかになるのではないか、そう熊楠は考えたわけである。その後の科学の転回は、必ずしも熊楠の推理通りにはならなかったが、従来の分類基準を弾力化して、様々な生物の間にある境界を曖昧化しようとした熊楠の努力は、方向性としては間違っていなかったと言える。

最期に熊楠と粘菌にかかわるエピソードを紹介しておこう。大正15年に、熊楠とその協力者たちは、採集した粘菌の標本90本を天覧に奉ずる機会を得たが、その目録の中で、粘菌を「原始動物」と表記しようとしたところ、当時の博物学会の重鎮服部某が異論を唱え、粘菌は菌であって動物ではないと主張した。そこで、熊楠グループの代理人たる小畔四郎は、権威者の意向を憚って、「原始動物」を「原始生物」と書き改めた。そのことを知らされた熊楠は大いに怒り、学問を偏見によって語るのは邪道だと、批判したのであった。

粘菌を菌だという人が絶えないのは、その名前が悪いのだろう、と熊楠は別の書簡の中で嘆いている。牟婁郡はいまでは三重県に含まれているが、昔は紀伊の国の一部だった。紀伊の大半は和歌山県になったことから、いまでも多くの人が、牟婁群を和歌山県だと思っている。それと同じで、一旦人々の頭の中にインプットされたことは、なかなか改まらないもののようだ、とこぼしているのである。




  
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