日本語と日本文化


南方熊楠とトーテミズム


南方熊楠は、自分の名の一部になっている「熊」と「楠」とが、トーテム信仰を反映したものではないかと推測した。熊と言う文字は熊楠の兄弟たちにもつけられている。また同郷の熊野の人には、楠の文字を名につけた人たちが数多くいる。そこから熊楠は、熊野地方には熊や楠をトーテムとする独自のトーテミズム信仰があったのではないかと推測し、次のようにいうのである。

「今日は知らず、二十年ばかり前まで、紀伊藤白王子社畔に、楠神と号し、いと古き楠の木に、注連結びたるが立てりき、東国、特に海草郡、なかんづく予が氏とする南方名字の民など、子産まるるごとにこれに詣で祈り、祠官より名の一時を受く。楠、藤、熊などこれなり。この名を受けしもの、病あるつど、件の楠神に平癒を祈る。知名の士、中井芳楠、森下岩楠など、みなこの風俗によって名づけられたるものと察せられ、今も海草郡に楠をもって名とせる者多く、熊楠などは幾百人あるかも知れぬほどなり。予思ふに、こは本邦上世トテミズム行はれし遺址の残存せるにあらざるか。三島の神池に鰻を捕るを禁じ、祇園の氏子胡瓜を食はず、金毘羅に詣でる者蟹を食はず、富士に上る人鮗を食はざる等の特別食忌と併せ考ふるを要す」(南紀特有の人名)

すなわち、熊楠の故郷には楠神というのがあって、氏子たちはその神と一体の感情をもっていた。その神にゆかりの名を自分の名とし、病気になればその神に平癒を祈った。これは我が国に古来から行われていたトーテミズムの遺風なのではないか、そう熊楠は推論し、三島神社の鰻や金毘羅の蟹も同じようにトーテミズムの残址なのではないかと類推するのである。

こういうわけであるから、熊楠もその楠神に特別の感情を持っていた。そして自分とその楠神との間で深い一体感を感じるのみならず、森の中に生きている様々な生き物と人間との間にある深い関係にも思いを致さずにはいられなかった。熊楠が熊野の森に深い愛着を持ち、それを壊そうとする者へ強く反発したのは、単に自然保護と言った理由のみならず、森のもつ神秘性に深く打たれていたからだ。熊楠があれほどの情熱を注いで神社合祀反対運動に邁進したことの背景には、こうした事情も大きく働いていたと思われるのである。

今日トーテミズムはアニミズム、シャーマニズムと並んで原始宗教の代表的なものの一つとされている。それを熊楠が知ったのはロンドン在留時代のことであった。これは当初アメリカインディアンの宗教文化を説明する概念として生まれたが、後に同じような文化が南太平洋の島々やオーストラリアの原住民の中にも見出され、かなりな普遍性をもつ宗教文化であることがわかってきた。その普遍的な宗教文化の枠組を、熊楠は日本にも適用したわけだが、それは自分自身の体験のなかに、トーテム信仰に類似したものがあったからに他ならない。熊楠はトーテミズムの概念枠組を知るに及んで、自分が子どもの頃から抱いてきた楠神との一体感をうまく説明できる原理を、獲得したと思ったに違いないのだ。

アメリカインディアンの場合、トーテムには種族トーテムと個人トーテムとがある。種族トーテムは種族全体に共通するトーテム、個人トーテムとは特定個人のみのトーテム。それ故ある個人は、種族トーテムと個人トーテムの両方を持つ。姓名との関連でいえば、種族トーテムが苗字、個人トーテムが個人名ということになる。つまりトーテムの組み合わせは、個人を弁別するための基準にもなっているわけだ。

日本の場合、種族トーテムと個人トーテムとは截然と切り離せない。たとえば熊楠の場合、楠は神社を中心にして成立している集団の共通のトーテムであるとともに、熊楠個人の守護神でもある。こんなところから、熊楠は日本のトーテミズムをかなり単純化してとらえていたようである。

さて熊楠はどんなところに日本のトーテミズムの現れをみていただろうか。まずは姓氏である。熊楠は「新撰姓氏録」(九世紀に成立した)に着目して、古代の姓氏にはトーテムを冠したものが多いといっている。柿本、榎、橘、櫟井、葉栗、椋、菌田などの植物、和邇、鴨、蝮などの動物を、トーテムとしていると思われる姓氏が多い。柿本人麻呂などはご丁寧に、単に柿本性の家に生まれたばかりか、柿の木の中から生まれたという伝説も伝わっている。その伝説の部分が個人トーテムにかかわる部分なのだと思う。

個人トーテムという点では、古来子どもの名に植物の名をつけた例が多い。男子の場合には舞童幸松、謡曲の梅若、三法院の春竹丸、続門葉集の杉王丸、謡曲桜川の少年桜子など、女子の場合には葵、菖蒲、山吹などである。

次に神社と特定の生き物とのかかわりである。稲荷と狐、熊野の烏、日吉の猿、春日の鹿、三島の鰻、竹生島の鯰、田中大明神の白犬、金毘羅の蟹などがその代表的なものだが、それらは神社とその氏子たちとが特定の生き物をトーテムにしていたことの残址などではないかというのである。

また、日吉の猿が大内の女房に孕ませて生まれたのが猿楽の元祖の四座ということになっているが、これは特定の職業とトーテムとの結びつきを現したものだろう。もっとも今日でも、能楽の諸座は猿に親近感を抱いているのかどうか、筆者にはよくわからない。ひとつ聞いてみたいもんだ。

藤原氏はもともと中臣氏を名乗っていたが、途中から藤を名乗るようになったのは、士族のトーテムである藤を姓氏として取り込んだのではないか、そんな意味のことを熊楠は言っている。藤原とは土地の名前だというのが歴史の常識であったから、筆者はこの説を聞いて大いに驚いた。藤原氏ゆかりの春日神社のトーテムは、先の議論からすれば鹿のはずだが、それと藤とがどんなかかわりになるのか。

さて熊楠にとってのトーテムである楠に関して、宮武外骨は、人名の楠は糞より転じたと主張した。それを真に受ければ、熊楠は本来熊糞だったということになる。しかし糞がトーテムになることは考えられないと熊楠は反論する。「決して悪臭の糞から芳香の楠に転嫁したのではない」と熊楠は主張するのである。




  
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