日本語と日本文化


摩羅考:南方熊楠の男根談義


摩羅とは男根の異名である。その異名がいつのころから用いられるようになったか、またそのきっかけはいかなることであったか、について南方熊楠が興味深い談義を展開している。"「摩羅考」について"と題する小文がそれである。

熊楠は談義のとっかかりとしてある俗説を紹介する。これは竹内某というものの「摩羅考」という小論の中で主張されている説で、「陽物を摩羅と呼ぶは、円観上人が・・・天台の法門に、いんちき坊主が考案せる立川流を混じて、比叡山常行三昧堂において、念仏三昧の道場神として祀られていた摩多羅神を持って来て、本尊として淫祠的教義を伝うるに至った・・・かくて摩多羅神は、摩羅神と愛称されて・・・我々の股間にまでその名を残された」というものである。

この説には、摩羅は摩多羅神が立川流の淫祠的教義と結びついたことから起こったこと、それには円観上人(1281-1356)が深くかかわっていたということが主張されている。そこで熊楠はこの主張が妥当であるかどうかを検討するのであるが、その方法は、円観上人以前に摩羅という言葉が用いられている例がないかどうかを探し出す事であった。もし、円観上人以前から摩羅という言葉が男根の意味に使われていたことが明らかになれば、竹内某の説は根拠を失うことになる。

そこで熊楠は直近の例から初めて次第に古い例へと遡っていく。まず第一に「稚児之草紙」。これは円観上人在世中にできたものだが、その中に摩羅を男根の意味に使っている用例が7か所ある、その使い方があまりにももっともらしいので、熊楠はいくら円観上人在世中とはいえ、ちょっと不自然ではないかと疑問を呈する。

次に「真俗雑記問答抄」という書。これは円観上人の誕生より19年前にできたものだが、そのなかに「我が恋はつひかうそりのあひかたみ、摩羅ありとても何にかはせむ」という歌があるのを引いて、摩羅ということばが恋愛の道具と関係づけられて使われていることを指摘する。

「古今著聞集」は円観上人の誕生より27年前にできたものだが、このなかに、「身を振ふほどに屁も糞も一度に出でにけり、穴にとりあてたる摩羅も外れて、云々」という条があるが、これは男色中に肛門から男根が外れたさまを描写したものだ、と熊楠は推測する。

「皇帝紀抄」は円観上人の誕生より49年前にできたものだが、この中に切羅という言葉が出てくる。切羅とは羅切と同義語で、羅すなわち摩羅をちょん切る旨、「和漢三才図会」にもあるという。

「古事談」は円観上人の誕生より60年前にできたものだが、その中に敦頼が摩羅を切り取られる話が出てくるという。

「今昔物語集」は円観上人の誕生より200年も前にできたものだが、その巻28に、蔵人藤原範国が殿中で「門牛」を掻き出す話があり、また巻29には昼寝をしていた僧が蛇に「門牛」を咥えられる話があるが、いずれも「門牛」には「摩羅」と傍訓してある。ちなみに国学者芳賀博士の難訓字解にはこの漢字に「摩羅」と「篇乃古」の二訓をあてているが、篇乃古は古来男根としてではなく、睾丸の俗称として用いられてきたと熊楠は反論している。

「本朝文粋」は円観上人の誕生より220年ほども前にできたものだが、その作者藤原明衡の書いた「新猿楽記」には、大きな「閇」のことが出てくる。これは訓では「摩羅」と読むが、音では「へい」と読む。「へい」は「閉」と同義である。なぞそんな風になったのか。それは女陰を古来「開」と書いてきたことからの類推だろうと熊楠は推測する。つまり女陰の開と男根の閉とを併せて開閉のイメージを完成させたもので、開いた女陰を男根もて閉じることを表す意なのだという。

ここで話は一転して女陰のことに発展する。古来女陰を「開」と書いて「つび」と訓じてきたが、この「つび」とは「貝」のことである。というのは女陰の形が一部の貝を連想させるからで、ずばり「かひ」ということもあった。

だが、その「かひ」と開く「かい」とは違うと熊楠はいう。女陰を「かい」といったのは、開くという機能からの連想ではないか。中国では今でも女陰をさして「ハイ=開」という地方があるそうだが、それは明らかに、女陰の開くという機能に着目した言い方である。もしかしたら、こうした古代中国で行われていた女陰の表現が日本に伝わった可能性もある、と熊楠は推測している。

女陰をさして「おめこ」とか「めめ」とかいう地方があるが、これは目からの連想ではないか、と熊楠はさらに想像力を伸ばしていく。目の形を縦にして書くと、女陰の形に似る。そこから「め」に接頭辞や接尾辞をくっつけて、「おめこ」とか「おめめ」になったのではないか。そう熊楠は類推するのであるが、筆者には異見もある。女陰を古事記では「ほと」と表現しているが、この「ほと」が長い間に音韻変化して「おめめ」とか、その類似語である例の四文字言葉(恥ずかしくてここには記せない)になったのではないか。つまり、「ほと」から「ぼぼ」になり、「ぼぼ」から「もも」になり、「もも」が転じて「めめ」になり、さらに転じて例の四文字言葉になった。そんな風に筆者は考えているのである。この考えは、柳田国男の研究に触発されて思いついたものである。

それはともかく、女陰を目に似たと見る例は諸国に多いと熊楠は言う。帝釈天の顔についている多くの目玉はみな女陰の相なのだそうだ。

「摩羅」の話に戻すと、「日本霊異記」は円観上人の誕生より458年も前にできたものだが、そのなかにすでに、「門牛」すなわち「万良=まら」のことが出てくる。

それよりはるか神代に溯って、「古事記」天の安の河原の神集いの所に「鍛人天津麻羅」というものが出てくる。これは人の名前ではなく、或る集団の名前であるが、その集団というのは鍛冶屋のことのようである。鍛冶屋というのは鉄槌をつくることを生業とするが、この鉄槌というのは火のように熱く、かつ鉄のように硬い一物という意味で男根を連想させた。そこから鍛冶屋のことを、男根のように固い鉄槌を作る輩、即ち「鍛人天津麻羅」と呼んだのではないか。そう熊楠は想像するのである。

こうしてみれば、「まら」という和名は、神代の昔から男根を差す言葉であった。何も、竹内某がいうような近い過去のことではなく、ましてや摩多羅神との結びつきもない。摩多羅神が「まら」と結びついたのは、後世の付会であって、それに立川流がかかわったことは否定できないが、それは円観上人の死後かなりたってからのことだろうと熊楠は推測する。

さてその摩多羅神であるが、これは大黒神と同体のものであろう、と熊楠はいう。三面六臂にして七鬼神と化し疫を行ずとされる神であるが、これにどう「摩羅」が結びついたか、そこのところはよくわからないらしい。

(追記)男子の名に「麻呂」を用いることは古代より最近まで行われてきたが、この「麻呂」が「摩羅」と深い関係があることは、十分に考えられる。




  
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