日本語と日本文化


地球志向の比較学:鶴見和子の南方熊楠論


鶴見和子女史の労作「南方熊楠」は、南方熊楠を包括的に取り上げて論じた最初の単行本だと女史自身が述べている。柳田国男と並んで日本民俗学の創始者と目されている南方であるが、柳田についての研究が百花繚乱なのに比較すると、南方についての研究はあまり進んでいなかったということを、女史は示唆しているわけである。女史自身もまず柳田の研究から始め、その延長上に南方にたどり着いたが、たどり着いてみるとすっかりその魅力に取りつかれてしまった、ということらしい。

そんなわけであるから、女史は常に柳田と比較しながら南方を論じている。この両者には当然共通点もあり、それだからこそ互いにひきつけあうこともあったわけだが、学問の基本的な姿勢において非常に異なるところがあった。それは、柳田の関心があくまでも日本国内にとどまっているのに対して、南方のそれは地球規模だと女史はいうのである。そのことを物語る一つの例として、女史は子安貝(宝貝)というものに対して両者が示した反応を取り上げている。

柳田は宝貝を見て、それが流れてきた海上の道に思いを致し、そこから日本人の起源へと想像を働かせていった。柳田にとって宝貝とは、日本人のルーツへの手掛かりなのである。それに対して南方は、子安貝の形が女陰のそれに似ていることに着目し、そこから人間の生命の起源としての、性という普遍的なものへと想像力を飛躍させていった。このように両者は、同じものを見ても、そこから異なった世界へと想像力を働かせていったわけである。

ところで、両者を結び付けるきっかけとなったのは、南方の小論「山神おこぜ魚を好むということ」を柳田が読んだことだった。おこぜとはカサゴに似た魚のことであるが、これにまつわる言い伝えが日本各地にある。いずれも山神にオコゼを見せるといいことがあるというような内容である。そこから柳田は、日本国内における類似の言い伝えの分布へと話を進めていくのであるが、南方の場合には、それを外国の例と比較する。

「柳田のおこぜの話は"巫女考"、"山人考"など、日本の漂泊民の研究へとつながってゆく。南方のおこぜの話は、より一般的な、マジックの現れ方の国際比較として取り扱われている」 つまり南方は柳田よりスケールが大きいというのである。

そんな南方の民俗学を特徴づけて、女史は「地球志向の比較学」と言っている。「地球志向というのは、一方では、特定の事象を、それが発生し作用している特定の地域のコンテクストにおいてみるということである・・・他方では、地球的規模の広がりをもって、共通の事象の異同、および相関関係を論ずることである・・・地域への求心性と、地球的規模への遠心性との、二つの相克する牽引力の間の緊張関係を示すことによって、南方の比較学は、日本の民俗学の中で異彩を放つ」

南方が学問上のコスモポリタンになりえたのは、地域に根差したローカル性を身に着けていたということだが、それとは相反して柳田は根差すべき地域を持たなかった。女史は三輪公忠を引用して、柳田を「故郷喪失者」と呼ぶ。「故郷を喪失し、東京=中央に居を定めて、後半生を日本全国を旅人として漂白した柳田は、地域に根をおろさなかったために、かえってナショナリズムに執した」

また女史は、谷川健一が柳田と南方を比較して述べた次の言葉を引用している。

「柳田民俗学の限界は、日本人とは何かという問いに終始し、ついに人間とは何かという問いの解決まで進み得なかったことである。それは諸民族の比較研究という知識の次元での操作とは正反対に、人間それ自体の生態を直視すること以外の何物でもない。しかもそれは南方のように強烈な視線の集中力と無垢の心情の持ち主であってはじめてできることであった」

ところでこうした学問の態度を、南方は十数年に及ぶ外国生活と、イギリスの実証的な学問の研究を通じて身に着けていったようである。南方には学者ぶったところが全くないが、それはイギリスのリテラーティを模範にしていることから来る。ダーウィンを始めイギリスの偉い学者の中には、本業を他に持っていて学問は楽しみとしてやる、それでいて千万の玄人に超絶する業績を上げる者が多い、自分もまたその生き方にならいたい。そうした気持ちが大いに働いていたのであろう、と女史は言う。実際熊楠は生涯在野の賢者として通したのである。

リテラーティの活動を支えるのは、何と言っても学問に対する素朴な喜びだろう。喜びがあるからこそ、学問をすることが楽しく、また自分の生活を支えるための生業ではない故に、純粋に知的な好奇心を満足させることができる。その辺の事情を、南方自身語っている部分がある、として女史は次の文章を紹介している。

「小生は元来甚だしき癇癪持ちにて、狂人になることを人々患へたり。自分このことに気がつき、他人が病質を治せんとて種々遊戯に身を入るるもつまらず、宜しく遊戯同様の面白き学問より始むべしと思い、博物標本を自ら集むることにかかれり。これはなかなか面白く、また癇癪など少しも起さば、解剖等微細の研究は一つもならず、この方法にて癇癪をおさふるになれて今日まで狂人にならざりし」(柳田宛書簡)

つまり南方は、自分の癇癪をまぎらすための遊戯として学問を始めたら、それが面白くて仕方がなくなった、と述べているわけである。「楽しきかな学問」それが南方にとっての究極的な学問のあり方だったのである。




  
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