日本語と日本文化


南方熊楠の履歴書


南方熊楠は履歴書というものを残している。これは、体裁上は58歳の時に書いた手紙なのであるが、その中で自分の半生を詳しく振り返っている。これがあるがために、南方熊楠の研究者は、南方の生涯のあらましについて知ることができる。筆者は先日鶴見和子女史の「南方熊楠研究」を読んだばかりだが、その本の中の南方の伝記の部分も、この履歴書を最大の頼りにしている気配が伺われた。

履歴書と言うとオフィシャルですました印象を与えるが、これはそんなつまらぬものではない。それどころかあきれるほど面白いのである。この履歴書の手紙の中で、熊楠は彼一流の率直さを以て自分の生きてきた年月を紹介しながら、ところどころ猥談を挿んで、読むものを退屈させない配慮を巡らせている。履歴書と言うより、自伝文学と言ったほうが、要領を得ているかもしれない。

どのような機縁で、南方はこんなものを書く気になったのか。そのいきさつがまた南方らしくて面白い。50代後半の時期、南方は自分の研究のために寄付金を募っていたのだが、日本郵船会社大阪支店副長の矢吹義男という人が、寄付に応じたいと思うから履歴書を送って欲しいと言ってきた。そこで書いたのがこの手紙というわけなのである。

この手紙を書いた時点では、南方は矢吹氏とは一面識もなく、今後どのように交際が発展するかについても定かではなかった。それにもかかわらず南方は、自分の生涯を忌憚なく語り、その中には自分自身や自分の家族に不都合な情報まで盛り込んである。しかも上述したように、面識もない人に向かって延々と猥談を語ってもいる。量からしても半端ではない。筆者が手にしたのは筑摩叢書版だが、上下二段組みで51ページにわたる大作である。南方熊楠がいかに破天荒な人間であったか、この一事を以てしても知られようというものだ。

南方の破天荒ぶりは、この手紙に記されているいくつかの日付の部分にも表れている。まず手紙の冒頭には、大正14年1月31日早朝5時前とある。手紙はいったん中断するのだが、その際の日付が大正14年2月2日夜9時ということになっている。つまり南方はこの長い手紙の前半を、大正14年1月31日早朝から、同2月2日夜9時までの間に書いたと推測されるわけである。しかして、中断後後半部分を書き終えたのは大正13年11月29日午後2時だとしている。これはあきらかに辻褄が合わない。南方は何をどのように勘違いしたのか。

ともあれ、この手紙の趣旨は大きく分けて二つある。一つは相手の希望に応じて己の生涯の履歴を陳述すること、もうひとつは、己が寄付金を募っていることの趣旨について説明すること。猥談はおまけである。

南方の履歴はひとまず脇へ置いて、ここでは南方が寄付金を募るようになったいわれについて取り上げてみよう。そこにもまた、南方のいかにも隠者じみたところが伺えるのである。

南方は自宅の庭でパルモグレアという藻を繁殖させる実験を行っていた。これは、藻にバクテリアを繁殖させ、そのバクテリアを生かして空中から窒素を取ろうとする趣旨であった。というのも、三井や三菱などが、空中から窒素を取る機械を外国から高く買い入れようとしていることを聞き、金を払って外国から輸入するだけでは能がないと言って、自力の技術の確立を訴えようとしたのである。その技術の要である藻を、南方は心魂込めて栽培した。

「一畝ほどの畔を作り、これに件の藻を植ゑ付け冬至の日にその畝の北端まで日が当たるやうに作り、それより一日一日と立つに従ひ、日光がおいおい夏至までにその畝の南端まで及ぶやうに作り、多年日光がこの藻に及ぼす影響を試みし。但しこのほかにもいろいろと学術上試験すべきことありて、この畔を日夜七度づつ夜は提灯をとぼして五年続けて怠りなく視察し居たるなり」

ところが思いがけない事態がおこった。俄成金が南隣に引っ越してきて、それまで建っていた平屋の長屋を二階建てにしようとしたのである。そんなことをされたら、せっかく丹精して作った畔に日が当たらなくなり、研究が台無しになる。南方は和歌山県知事に陳情したりしてその企てをやめさせようとしたが、結局は力及ばず建てられてしまった。

相手のやり方と言えば、敷地境界ぎりぎりに建物を立てたり、隣人の日照を阻害したりと、法律上にも問題のある行為だったので、手続きを踏んで相手を追求したら、あるいはやめさせられたかもしれない。ところが自分は法律に疎く、相手の無法を許してしまった。南方は後でそう反省するのであったが、すでにあとの祭り。

「小生はいろいろ学問をかじりかいたが、亡父が亡兄を法律を振り回して多くの人に憎まれ、つひに破産すべきものなり、熊楠は必ず法律に明るくなるべからずといはれしを守りて少しも法律を心得ざりし故、かやうの屈すべからざることをも屈せねばならぬへまをやらかし申し候」

その代わりと言ってはなんだが、別の場所に植物研究所を作ろうという計画が持ち上がった。計画を推進したのは弟の常楠と友人の田中長三郎。賛助会員として原敬や大隈重信も名を連ねている。これは金十万円を募金して、その金で植物学の研究農場を作ろうという趣旨であった。南方は自身東京へ赴いて有力者を訪ねては募金を呼びかけたが、結局は目標額に達せず、計画が実現されることはなかった。

ともあれこの履歴書は、南方の募金活動の副産物として生まれたのである。手紙の最後に近いところで南方は次のようにいっている。

「もし御知人にこの履歴書を伝聞して同情さるる方もあらば、一円二円でもよろしく小生けっして私用せず、万一自分一代に事成らずば、後継者に渡すべく候間御安心して寄付さるるよう願ひ上げ候」

実に泣かせる話ではないか。




  
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