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少女霊異記:高樹のぶ子を読む


高樹のぶ子の持ち味は何といっても官能的なポルノグラフィーにある。ところがその官能性は年とともに衰えるらしく、高樹の場合にも還暦を過ぎてからは、めっきり淡泊な作風に変わっていった。やはり生理的な変化が影響しているのだろう。女性には男と違って、閉経という人生のくぎり目がある。閉経を過ぎた女性は女性ホルモンの分泌が激減し、性的な興奮を感じることもなくなるという。高樹の場合には、得意の官能的な描写は自身の体験に根ざしているようだから、そうした性的な興奮がなくなると、官能的な想像力が枯渇するのは無理もない。身体の肝心な部分が乾ききっていては、濡れ場の描写にもさしつかえるということだろう。

「少女霊異記」は、2014年つまり高樹が68歳の年の作品である。この年にもなると、官能的な気分とも縁遠くなり、その分知的な機微で補うようになる。じっさいこの小説には官能的なシーンはまったくといってよいほどないし、また人の好色な期待にこたえるような描写もない。その点ではいたって健康的な小説である。少女漫画にしたら人気が出そうな雰囲気である。

タイトルからも察しがつくように、日本最古の伝奇集「日本霊異記」をベースにしている。日本霊異記に書かれている不思議な話が、現代の奈良で再現されるという趣向だ。その再現に立ち会うのは明日香という若い女性。彼女は大学四年生の男と同い年だといっているから、おそらく22歳かそのあたりだろう。ふつうはそういう女性を少女とは言わないが、本人はそんな気持ちでいる。なにしろ性的にも奥手で、セックスをする事態に至っても、それを全身で喜んでいる風情には見えない。たまったおしっこを威勢よく排泄するときの快感に似ているくらいにしか感じない。そんな若い女性がなぜ、1200万年前に書かれた怪奇話の世界とかかわりを持つようになったか。小説を読み終わっても、読者は明確なイメージを持つことがないであろう。

主人公の明日香は、奈良市の奈良町に住んでいる。元興寺の付近だ。古びた家に一人暮らし。母親がいるのだが、娘をおいて名古屋で暮らしている。だから孤独なというとそうでもない。家の庭にたっている楠には頭のよいカラスが住んでいて、なにかと明日香の相手をしてくれる。また、道を挟んだ向かいの家には畳屋の老人夫婦が住んでいて、明日香にとっては頼りになる人々だ。特に繁さんと呼ばれる老人は、鋭い推理が持ち味で、明日香の直面した疑惑の解明に適切なアドバイスをしてくれる。

明日香は、薬師寺の寺子としてアルバイトをしている。彼女は仏像が好きなようで、薬師三尊を見ていると飽きないという。日光さんと月光さんは、一応性を超越した存在ということになっているが、明日香には、仏像の官能的なお姿が女性のように見える。明日香がそれら仏像に関して抱くイメージが、この小説で唯一官能的な部分だ。それもごく控えめな描写だ。仏像のひねられた腰の動きに性的な挑発を感じるといったところだ。

薬師寺は奈良町の真西にある。その間を一本道が東西につらぬいている。その道を明日香は毎日自転車で通るのだが、朝は朝日を、夕方は夕日を背中一杯に浴びる。これを始め小説の中には、奈良の地図を想起させるような描写がいたるところにある。だから地図を見ながら読んでいると、自然と、奈良の地形配置が頭に入ってくるようになる。カントではないが、行ったことのない土地について、誰よりも物知りになるのだ。

こうなるのは、原作の「日本霊異記」自体が、奈良の特定の土地を舞台にして展開されるさまざまな逸話の集合体だからだ。それらの逸話のいくつかが、この小説を構成する六つの逸話の原型である。その逸話を簡単に紹介すると次のようだ。母親が殺されたと訴える少年が、1200年前に岡本の尼寺で起きた事件と深いかかわりを持っていたという話(奇しき岡本」、四人組の少女たちの間で発生したいじめが、飛鳥寺の鬼と深いかかわりがあったという話(飛鳥寺の鬼)、変な男たちに追われる男に明日香がかかわりあいになるが、その男たちの関係の原型は率川神社と深いかかわりがあったという話(率川神社の易者)、突然落雷で感電死した男の娘が失踪してしまうが、それは雄略天皇時代に生きていた雷神の復讐だったという話(八色の復讐)、明日香と母親との関係を夢ほどきをからませながら語った話(夢をほどく法師)、道鏡と称徳女帝とのスキャンダルを八尾という地名及び八角形に絡ませながら語る話(西大寺の言霊)なのである。どの話も奈良の特定の地名と深く結びついている。だからどの話も地名をヒントにした謎解き遊びの要素を持っている。

明日香と恋人の関係になる岩島という学生は「率川神社の易者」で初登場して以来、最後まで登場しては、明日香の謎解きのパートナーをつとめる。明日香にとってかれは、セックスの相手というよりは、頼りになるパートナーだ。明日香にはかれが、自分にないものを持っているような気がする。それは科学的な思考だ。明日香は、自分には科学的な思考が欠けていると思っている。それを岩島は補ってくれる。謎解きにはやはり科学的な思考が必要だから、それを持った岩島は明日香にとっては貴重な存在なのだ。なにしろ明日香は、セックスをするより、古代の伝奇集を読むほうが好きなのだ。そんな風変わりな女性は、高樹のような老成した女性にはかわいい少女のように見えるのだろう。22歳といえば立派に成熟した女だが、その22歳の女である明日香を高樹は少女として描いているのである。

そんなわけだからこの小説は、少女漫画と同じような雰囲気に充ちているわけである。

なお、小説中に出てくるカラスはケイカイと呼ばれている。霊異記の作者景戒をもじったつもりだろう。景戒が霊異記を書いたのは、勧善懲悪思想を広めるためだったらしいが、カラスのケイケイには無論そんな意図はない。カラスにとっては善も悪も区別がない。善と悪を区別したがるのは、人間のあさましき智慧のためだ。そうこのカラスは言っているようである。その割にはケイカイは単純な性格に描かれている。なにしろ世の中を快と不快という対立軸をとおして眺めているのだ。快のケースではクククとなき、不快のケースではギャオとなく。人間もそれくらい単純になれたら世話がないだろう、というような高樹の冷めた見方が伝わってくるようである。いずれにしても、官能に欠けた部分を智慧で補おうとしているといえよう。


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