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香夜:高樹のぶ子を読む


官能的な作風で好色な読者を魅了してきた高樹のぶ子が、幻想的な作風に一転して読者を惑わせたのが「香夜」である。日常と非日常の区別がなく、現実の出来事が幻想と融和しているところは「幻想的」といえる所以だが、それにとどまらない。人間が動物に化けたり、死んだ者が生きたものを道連れにつれていくところなど、奇妙奇天烈なストーリーを含んでおり、その点では怪奇小説ともいえる。とにかく、多彩な内容を含んでいる。エンタメ作家高樹のぶ子の本領が遺憾なく発揮された作品である。

老年に達した女が自分の過去を回想するという形をとっている。回想の内容は、自分自身にかかわることと、自分にかかわりの深い人物にかかわるものがある。それらが四つの説話として語られる。第一の説話は、自分の過去が語られたあげく、自分が深く憎んでいた男を殺すところで終わる。女が男を殺す動機は、かならずしも明確ではない。また男を殺したことに現実感が伴わない。ただ首を切断して池に投げ入れた男の死体がオタマジャクシに食い荒らされるイメージが女を襲うばかりである。

第二の説話は、自分と自分の姉にかかわること。自分は常に姉に劣等感を抱いていた。姉は自分と違って美人だし、頭もよい。その姉がろくでもない男に恋い焦がれ、その挙句に捨てられてしまう。どういうわけか自分は、その姉をつれてスペインのカゲダスに行く。そこには姉を捨てた恋人が住んでいるはずなのだ。その恋人はむさくるしい老人に変わり果てていたが、俺には六人の妻と三十五人の孫がいるという。その六人とはこいつらだ、といって老人は六個のスイカをいじくりまわす。しかしこれはどうやら現実におきたことではなく、幻想だったようだとアナウンスされる。姉の手帳を見ているうちに、その手帳の内容が実体化したらしいのだ。

第三の説話は、自分の息子の千にかかわること。千は妻子と別れて一人北陸の小さな町に住んでいる。そこで木彫りの修行をしているのだ。そのかれを母親である自分が、千にとっては娘、自分にとっては孫娘の星子を連れて会いに行く。星子は六歳だ。千の妹にあたる百が死んだのも六歳の時だった。千は、表が雪茸で裏が白猫という両面の彫物を彫っていた。そこから自分の幻想が始まる。いろいろなことが起きた後、自分と星子と千は、雪の中で白猫を追いかけているうちに、千の師匠の義二郎ともども穴に落ちてしまう。その穴は、伝説で語られていた雪茸の作った穴だった。そこにかれらは、四人揃ってすっぽりをはまり込んでしまうのだ。そのあと彼らはどら焼きを食べるのだが、どこからが幻想で、どこまでが現実なのか、一切は混然として判明ではない。

第四の説話は、自分の娘の百が六歳の時に死んだのは、やはり六歳で死んだタミという女の子が連れて行ったからだと語られる。そのタミという女の子を、自分は事情があって面倒を見ていたのだったが、どういうわけか魔がさして、その子を殺してしまったのだった。そのことに復讐するためにタミは、彼女の娘が六歳になった年にあの世につれていってしまったのである。

そこまで語り終えたときに自分は、若い男と出会い、俄かに欲情を催す。実際は六十歳にはなっているのに、二十歳前後に若返り、男から色目を使われた。その色目に反応して、自分も欲情を催すのである。その部分のハイライトは次のように描写される。「身体の中心を真っ直ぐに貫く大動脈が、拍動とともに下半身の真ん中に甘酒を運んでいく。使い果たしたと思っていたのにまだ、こんなにも甘いものが体内に残っていたとは」。その甘い体液を自分は若い男に吸わせる。「スカートを持ち上げ、膝頭を露わに」して。体液を「チュルチュルと音たてて」吸われた自分は、もう我慢ができなくなって叫ぶ。「どうぞ来てください、早く来て、もう待てないと」、自分は「白い光に向かってよろこびの声を上げた」のである。

こんな具合で、幻想的な雰囲気で荒唐無稽な怪奇譚を聞かされたあげくに、最後に読者は女の官能的な声を浴びせられるのである。やはり高樹の本領は官能小説にあるのであって、たとえ怪奇小説を書いているときでも、官能の要素を差し挟まないでは気が済まない、といった彼女の作家としての意地を感じさせるところだ。

ところで、その怪奇小説の手本を、高樹はとりあえず日本の説話に求めたようである。日本には「日本霊異記」や「今昔物語」といった説話集があって、それらには奇妙奇天烈な物語が多数含まれている。高樹はそれらを参考にして、この小説の中の説話を組み立てたのだろう。日本のそうした説話には、あまり幻想的な雰囲気はなく、描写自体はリアルである。そのリアルな文章で奇妙なことを書くことから、物語の怪奇性がいっそう引き立ってみえるという効果をもたらしている。

そうしたリアルな文体で異様な事態を書くということでは、ラテンアメリカ文学のマジックリアリズムと言われる傾向に通じるものが指摘できる。しかし高樹の文章はマジックリアリズムとは違っているようである。マジックリアリズムとは、現実そのものが常軌を逸した異常性を帯びてくることから由来するものである。つまり現実をありのままに描くと、そのままマジカルに見えてしまうということだ。だからそうした小説には作り物のイメージは薄い。ところが高樹の小説はあくまでも作り物である。ラテンアメリカでは、人間が動物に変身することはごく日常的なこととして受け取られているが、日本人はそんなことを信用しない。そんなことはあくまでも想像力の産物だと割り切って受け取る。そこが作り物としての小説と、マジックリアリズムの小説との基本的な相違だ。

やはり高樹の本領は官能性にあるといってよい。だからこの小説にそういう部分が含まれていることは、小説を引き締める効果をもたらす。それがないと、ただの作り話に終わってしまうだろう。それにしても、六十歳の老女が二十歳に若返ったことで、枯れていた体液が復活したというのは、非常にめでたいことである。しかもその体液を若い男に「チュルチュルと音を」たてて吸ってもらうわけだから、若返ったことの実感を全身をあげて堪能したに違いないのだ。男が年老いてなお発情したがるのと同様、女もまた年老いてなお発情したがるということを、女の筆で書いてもらうと、実に説得力がある。


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