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透光の樹:高樹のぶ子を読む


「透光の樹」は、高樹のぶ子の一連の官能小説の頂点をなすものだ。前に読んだ「蔦燃」に比べると、構成の点でも文体の点でも各段の進歩が認められる。官能的という面でも、一段の進化が見える。その進化は、高樹が人間の性愛を即物的な面に還元したことから生まれてくるようだ。この小説で描かれた男女の性愛には、精神的な要素はほとんどないに等しい。なにしろ小説の主人公である千桐という女性が、「女は思わないで感じちゃうから」と言って、女が性愛をもっぱら下半身のことがらとしてとらえているほどなのだ。そんなわけだから、この小説で描かれた男女の性愛はとことん下半身にかかわることとして割り切られている。そういう意味で、官能小説の旗手といわれる高樹のぶ子は「下半身の作家」ということができよう。

小説の主人公を演じる男女は、会った瞬間に互いを求めあう。それも下半身を通じてだ。下半身を通じて結びつきたいというのが、この小説全体を通じたこの男女の願いであり、その願いを展開してみせるというのがこの小説の内容なのだ。無論下半身の結びつきばかりでは小説にはならないから、男女の間の金のやりとりとか、加賀地方で鍛冶屋をやっていた女の父親をめぐる逸話だとか、男女の死別だとか、いくつかの逸話が差し込まれてはいる。しかしそれらは本筋である男女の肉の交わりを盛り立てるための刺身のつまのようなもので、小説の眼目はあくまでも男女の性愛、それも下半身を通じた性的結合を描くことにある。

その描き方が、実に即物的なのである。セックスの行為を描くわけだから、無論官能的でエロチックな雰囲気に充ちているのだが、それがきわめて即物的に表現される。しかもその表現がきわめて論理的なのだ。高樹のぶ子は、女流作家としては論理を重んじる傾向が強くて、感性よりも知性に勝っていると感じさせるところがある。だから、男女のセックスを描きながら、それをあたかも物質的な現象のように表現する。そういう文章を読まされると、ポルノらしい猥褻さを期待する読者は、小バカにされているよじうに感じるのではないか。あるいは、彼女のなにかしら訳知り顔の説明は、まるで中学校の女教師に性教育されているような気持ちを起させる。まさか、人間の男女の性交を、植物のおしべとめしべの結合にたとえるような無粋な真似はしないが、高樹の即物的な文章は、どこか冷めたところを感じさせるのだ。

主人公の男女は二十年以上ぶりに再会したことになっている。初めてあったとき女はまだ少女の年頃で、二人の間に恋が芽生えることはなかったのだが、久しぶりに再会してみると、男女ともにすぐさま性欲にとらえられる。男は女を抱きたいと思い、女は男に抱かれたいと思うのだ。抱きつつ抱かれつつ下半身で結びつきたい、それがかれらを捉えた激情の中身なのだ。それが始まりとなって、かれらは次第に深く結びつくようになる。無論下半身を通じてだ。かれらにとっては、下半身こそが自分のすべてであり、下半身で快楽を感じることが、生きる喜びそのものなのだ。その下半身を通じての男女の肉の結びつきを、官能的でありながら、しかもどこか冷めた文体で描き続けるのである。

セックスの行為の描写はそう露骨ではない。そこが安っぽいポルノ小説とは違うところで、一応読者の想像力を働かせるような書き方をしている。いくつか例をあげると、次のようなものだ。

「千桐の浴衣の下は素肌で、郷の下腹部に陰毛が触れた。いまのこの状態から逃げ出す、ただそのことのみを考えて、彼は千桐の体内に入っていく・・・性器をただ、行きどまりの壁に向かって打ちつづける。その時、目の前の女の顔が、放り投げられるように左から右に動いて、激しく咳込むような息とともに一瞬の泣き声があがった。同時に、彼の性器を包み込むやわらかい肉が、苦しみあえぐように波打った・・・」。女はこのあと、「わたしだけ、ナッちゃうなんて」といって、その理由として「二年もこんなことしてないから」というのだが、たしかに女盛りの身で二年も禁欲していたら、こうなるだろうことは、男の小生でも想像がつく。ちなみに、「ナッちゃう」という女の言葉を男は珍しく思うのだが、それは東京の女が使うことのない言葉だからだろう。こういう場合、東京の女はふつう「いっちゃう」というところだ。

この場面は二人の最初のセックスを描いたものだ。関係が深まるにしたがってかれらのセックスも激しいものになっていき、男のほうも強い性的快楽を得られるようになる。女もまた、男の快楽に自分が貢献できることを願い、自分の快楽の程度は男の快楽の従属要素だと感じるようになるのだ。そんな男への女の気遣いを思わせる場面がある。

「シャワーの湯は千桐の乳首を立たせ、性器の内側を満たしていた粘液をきれいに洗い流してくれたが、その水流はまた、次々に新たな粘液を誘い出すようで、こんなずるずるした体では郷に嫌われる、とさらに奥まで指を入れて洗おうとしたところそこはもう赤谷の深い暗がり、怖いものが棲んでいるのがいるのがわかって、慌てて指を抜いた」。赤谷というのは、千桐が二人の男友達と渓流釣りに出掛けた場所のこと。その男の一人は整骨医をしていて、職業柄人間の体を見ると骨が透けて見えるのだと言ったのだった。その件を読んだ小生は自分自身の体験を思い出した。小生は火葬場に二年間つとめたことがあったが、その期間毎日人間の焼きあがった姿を見慣れるうちに、人間の姿を見るとやはり骨に見えたものだった。たとえば電車のなかで前の座席に座った美しい女性を見ても骨に見える。隣人が焼鳥を食うのをみると、骸骨があごを動かしているように見えるのだった。

ともあれ千桐は、自分の性欲の高まりを通じて、人間という生きものがいかに性欲に突き動かされながら生きているかに思い当たるのだ。「本能のままに、とは言うものの人間は本能がこわれた生きもの、だからこそ、春夏秋冬、さらには生殖の年齢を越えてまで発情することが出来るのだから、本能にそむいてと言うべきかもしれないが」

ともあれ、この時のセックスは二人同時に強い快楽をもたらしてくれた。千桐は自分だけではなく男も満足したのを見届けてこう言うのだ。「わたしの二倍、素敵になった?」。これは受け取りようでは娼婦の言葉に聞こえる。じっさい千桐は男との性的な関係を、自分を金で買われた娼婦として自覚することで、性的に大胆になれたのである。しかしその性的な関係がやがて男女の深い愛に発展するのだ。それでも彼らの間の愛が、下半身を通じてのものであるということに変わりはない。

二人を引き離したのは死であった。男が末期の大腸がんにとらわれたのだ。医師から手術を勧められた男はそれを拒絶する。手術の結果人工肛門となっては、いとしい女を抱くことができなくなるからだ。病状が進行して、外目にも体の異変が目立つようになり、膨れ上がった腹を抱える男はまるで蛙のように見えるのだが、そんな状態になっても、男は愛する女を下半身で喜ばすことにこだわる。もしも性器が役にたたなくても、他のあらゆる手段を通じて女を喜ばせたい。男はこう思うのだ、「今夜は思い切り、千桐を燃えあがらせないのであれば、頭で考えうるすべての手段を動員する。自分の頭はそのために、体の頂上についているのだ」。つまり、頭も下半身に奉仕するためにある。人間の欲望は無論、魂までも下半身に宿っているに違いない、そう男は考えているようなのだが、それは高樹自身の考えでもあると受け取れるのである。

男が死んだあと、女は脳梗塞による認知症に陥る。その結果恍惚の人と化した女は、下半身が覚えていることを唯一の生きがいにして、彼女なりに幸福な晩年を送るのである。そういう結末を読まされると、人間は元気なうちにせっせと下半身を活用せなばならぬという、ある種の深い人間観を得ることになる。


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