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光抱く友よ:高樹のぶ子を読む


小生は中年の頃に一時期、高樹のぶ子の小説にはまったことがあった。その折には、官能的なところが気に入ったように思う。男の書く官能小説は、どこか作り物という印象が付きまとうが、高樹の小説には、妙な現実感があった。その現実感とは、性の衝動を素直に表現するところから来ているように感じられたものだ。女でなければ表現できない性的な感情、それをストレートに表現するところは、男をたじたじとさせる迫力をもっている。

久しぶりに高樹のぶ子の小説を読んでみた。ここ数か月日本の女流作家を立て続けに読んできての延長のことだった。まず読んだのは「光抱く友よ」。芥川賞をとった高樹の出世作だ。読んでみての印象は意外なものだった。小生が高樹について抱いていた印象とはかなり違った雰囲気の小説なのだ。小生のかってな思い込みかもしれぬが、高樹らしい官能性がこの小説にはほとんどない。あるのは、堅苦しいまでの生真面目さだ。

テーマは、思春期の少女たちの友情である。友情をテーマにした小説はかなりあるが、女同士、それも少女同士の友情を描いたものはそうないのではないか。女同士の関係を愛の関係として描くと、とかく性的な色彩を帯びがちだ。谷崎の「卍」などは、日本人が書いた女性同士の愛の物語としてはもっとも典型的なものだと思うが、それはやはり女性の同性愛を描いていた。

高樹のこの小説には、そうした同性愛的な雰囲気はまったくない。というか、性愛的な要素がないと言ってよい。性的な面では透明なのだ。性を超越した人間同士の関係が描かれている。その関係は思春期にある少女たちの関係であるから、ある種のイニシエーションを連想させる。この小説に出てくる少女たちは、大人になるために通らねばならぬ通過儀礼のようなものとして、お互いにかかわりあうのだといえそうである。

主人公二人のうち、一人は涼子とよばれ、一人は松尾と呼ばれる。名で呼ばれる涼子の視点にこの小説は立っている。その涼子から見た世界が、この小説の舞台だ。思春期とはいえまだ子供のことだから、その世界は小さい。小さいながらも、大人になるためにくぐらねばならぬ試練は豊富にある。その試練と一つひとつ向き合いながら、少女たちは成長していく、というような書き方になっている。

涼子は、大学の教授を父にもつ中流家庭の娘だ。一方松尾は母子世帯で、母親は水商売をやっており、生活が乱れている。その影響かわからぬが、娘の松尾も、男をつくったりして、いわば不良の境遇を生きている。学校にまともに出ないことが理由で、一年留学している。だから涼子より一つ年上である。そんな対照的な二人が互いに引き付けあうというのがこの小説の骨格だ。

二人を密接に結びつけたきっかけは、松尾が教員から折檻されているところを涼子がみたことだった。教員は松尾が反抗的だと言って折檻するのだが、その仕方が教育とは無縁のように思われて涼子は反発する。その反発が涼子を松尾に引き寄せるのである。

小説はそんな二人の行きつ戻りつの間柄を淡々と描き続ける。互いの家を訪れることもある。それなりに親愛感が深まっていく。やがて卒業の時期がくる。卒業後も二人が依然付き合い続けるのか。明示はされていないが、おそらく彼女らは別の道を歩くことになるだろうと暗示させながら小説は終わる。その前に印象的なシーンがさしはさまれる。涼子が川の土手に桜の花を見に行ったさいに、松尾の母親が数人の男たちと宴会をしていた。その宴会に涼子は引き入れられ、野卑な男たちからけしからぬ扱いを受ける。涼子は身の危険さえ感じるのだが、そこへ松尾が現れて涼子を救い出す。松尾自身は母親を自転車に乗せて連れ去るのだが、それは、自分に待っているのは、この母親と同じような境遇なのだということを感じさせるような描き方だ。

こんな具合でこの小説は、少女同士の純粋に人間的な触れ合いを描いたものであって、それに付随して社会的な視線を感じさせるようになっている。小生は、高樹は基本的には官能小説作家であって、関心はもっぱら人間の下半身にあると思っていたので、その高樹が、人間の上半身をも超えて、社会にまで広がる関心をもっていたことを「発見」したのは意外なことであった。



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