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高樹のぶ子を読む


小生は、中年に差し掛かった頃に、高樹のぶ子を好んで読んだものだったが、それはポルノ小説としてだった。女の筆で描かれたポルノの世界は、男のそれとは全く違った官能性を感じさせる。高樹のポルノは実に生々しい官能性に充ちているのだ。

高樹以前に小生が読んだ女流ポルノといえば、森瑤子だった。森は才気ばしった女性のようで、彼女のポルノには、どこか乾いたところがあり、濡れ場に立ち会っているという実感がわかない。たとえば、タイトルは忘れてしまったが、ある小説の中で、イギリスに住んでいる日本人女性がイギリス女に侮辱される場面がある。そのイギリス女は、日本の女のあそこは横に割れているのだろうと罵る。その言葉に怒った日本の女は、復讐を決意する。そこで小生などは、日本の女がイギリス女のあそこを横に広げてやるのかと思ったりしたが、実際にその日本女のやったことは、イギリス女の亭主を寝取ることだった。イギリス男を通じて、自分のあそこも縦に割れていることを、わからせるためだった。

こんな具合に、森のポルノ小説には、どこかしらずれたところがあった。高樹の小説はその真逆で、つねに核心にせまった書き方をする。しかも女の立場からその核心に触れるのであるから、男の読者にとっては実に刺激的である。男のポルノ小説は、目で興奮するようになっているが、女としての高樹のポルノ小説は、肉が興奮するのを覚える。高樹のポルノに出てくる女たちは、陰部が体液で満たされ、子宮の奥がうずくことに至高の快楽を感じるのだ。しかも彼女たちは、セックスに前向きである。単に男に抱かれるのではなく、自分から男を抱きにかかる。もっとも女の身体は受け身の構造にできているので、自分から男をどうこうしようというふうにはならない。あくまでも男が女である自分を刺し貫くように導かねばならない。そのあたりの呼吸を、高樹のポルノに出てくる女たちは良く心得ていて、男たちに女の肉体を征服した気分にさせるのである。

高樹は最初からポルノ作家だったわけではない。芥川賞をとった出世作「光抱く友よ」は、少女同士の友情を描いたものだ。男同士の友情を描いたものは、太宰の「走れメロス」を始めいくらでもあるが、女同士それも少女の友情を描いたのは珍しい。しかも女性作家の目を通じて描いたわけだから、非常に新鮮だった。そうした新鮮な試みを続けるという選択肢が高樹にはあったと思うのだが、すぐにポルノ路線に転向した。それが成功したことは周知のことである。高樹は、女の立場から男女の濡れ場を濃厚な雰囲気で描き出すということでは、他に追随を許さなかった。高樹の登場に感激した男性ポルノ作家の渡辺淳一は、女性の書いた本格的なポルノ小説を読む喜びを語ったほどだ。

そんな高樹の官能小説の代表作は「透光の樹」である。これは中年男女の恋愛を描いたものだが、無論女の視点から描いている。主人公の中年女は、男を一目みただけで、催してしまい、その欲望を成就することを唯一の目的として生きるようになる。彼女が催すというのは、陰部が濡れるという形で表現される。女にとって陰部が濡れることは、男根を受け入れる準備が整ったということで、要するにセックスへの身構えができているということだ。高樹の小説に出てくる女たちは、つねに陰部が濡れることにセックスへの予感と、それに伴う喜びを感じるのだ。

こんなわけで、高樹のポルノ世界はじつにあっけらかんとしている。人間は基本的には肉の塊であって、つまり物質的な関係に制約された存在である。もし精神的な要素があるにしても、それは物質的な興奮である肉の喜びを高めるための脇役に過ぎない。そうした唯物論的な開き直りが、高樹の持ち味といってよい。

しかし、肉というものは賞味期限のあるものである。年をとると味が落ちる。それのみならず、女には閉経という運命が待ち構えていて、生理的なバイオリズムが終結したあとには、乾ききった肉体が残される。女は濡れることで欲情するわけだから、乾いてしまっては欲情のしようがないのである。そこで、肉に欲情しなくなったらしい高樹は、他に小説のタネを求めざるをえなくなった。高樹には知的な好奇心が強くあるようなので、その好奇心を生かして、小説に遊びの世界を持ちこんだのである。日本霊異記などに題材をとった一連の怪奇小説はその代表的な作品といえる。高樹は、そうした怪奇小説にも、始めの頃は濡れ場を持ち込んだりしていたが、やがてそうした小細工を退け、純粋に知的なゲームに遊ぶようになった。

高樹晩年の傑作「小説伊勢物語業平」は、高樹の遊び心が大きく花開いた作品である。これは、伊勢物語を換骨堕胎して、高樹なりに再構成したもので、高樹のゲーム感覚が高度に発揮された作品である。原作が有名な恋物語とあって、男女の濡れ場を想起させる場面に充ちているのだが、高樹はそうした濡れ場を借りずとも、男女の間の機微をよく表現し得ている。枯れた老女の書いた恋物語というのも、またそれなりに味わいがあるものである。

こう見てくると高樹は、普通の人間関係を描くことから出発し、やがて男女の恋情のもつれあいを専ら描くようになり、晩年にいたって知的ゲームに没頭するようになった。そうした高樹の作風の変遷は、彼女の女としての肉体の変化にともなった現象と言えなくもない。まだ性的に未熟な頃には、普通の人間としての経験を重視し、性的に成熟する年頃にはもっぱら男女の性愛に関心を集中する。そして閉経に見舞われたあとでは、行き場を失ったエネルギーを知的な遊びに費やしたということではないか。そういう点で高樹は、自分に忠実な生き方をしたと言えるのではないか。


光抱く友よ:高樹のぶ子を読む
蔦燃:高樹のぶ子を読む
透光の樹:高樹のぶ子を読む
香夜:高樹のぶ子を読む
少女霊異記:高樹のぶ子を読む
小説伊勢物語業平:高樹のぶ子を読む


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