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献燈使:多和田葉子の近未来ディストピア小説


「献燈使」は、近未来におけるディストピアを描いた小説だ。ディストピア小説といえば、オーウェルの「1984」が反射的に思い浮かぶ。そのオーウェルのディストピアは、専制権力による野蛮な支配がテーマだった。そんなディストピアなら、我々の周辺にいつ出現してもおかしくない。それだけに妙な切実感を以て迫ってくるところがある。人類規模のベストセラーになった所以だと思う。それに対して多和田洋子のディストピアは、政治的な要因で生じた世界ではなく、地球の物理的な破壊によって生じたようである。その破壊はどうやら原発事故によるものらしい。その結果、世界中の国々は互いに国境を閉ざしてしまったし、国内においても、都道府県相互の往来はタブーになってしまった。そればかりではない。人間の健康に重大な変質が起こった。老人たちは死ぬことができなくなって、いつまでも若者扱いされる一方、若い人たちは虚弱体質になって、元気な老人の介護なしでは暮らしていけなくなった。そういう倒錯した世界を、多和田のディストピア小説「献燈使」は描いている。

この世界では、六十歳代でも若者と呼ばれ、九十歳に至ってやっと中年の老人と呼ばれ、主人公の義郎のように百歳をはるかに超えて、はじめて正真正銘の老人と呼ばれるのだ。その義郎は、小説の終わりごろの時点では百十五歳ということになっている。それでも死ぬ兆しはまったくないのである。こうした年齢状況を今の日本と比較すると面白い。今の日本では六十五歳で老人と呼ばれ、七十五歳になると後期高齢者と呼ばれる。八十五歳ともなると末期高齢者と呼ばれてそろそろ死ぬ準備をせまられ、それでも百歳を超えて生き延びると死に損ないと呼ばれたりする。多和田の小説でも、百歳を超えた本当の老人は、やはり死ぬことができないという点では死に損ないと言えるが、ただかれらは死にたくても死ねないのである。

一方、義郎が一緒に住んで、日々の介護をしている曾孫の無名は、成長するにつれて次第に身体が退化していく。この小説の時点での無名は小学六年生くらいの年齢だが、その年齢に相応しい勢いはない。手足は鶏かなにかのように瘦せ細っているし、骨も軟弱だ。だから義郎は毎日ミルクを飲ましてやるのだ。ミルクには骨の成分が豊富だから。そんな無名は、子どもより親のほうが長生きすべきだと考えている。子どもが死んでも親は生きて生けるが、親が死んでは子どもは生きていけないという理屈だ。そんな言葉を聞くにつけ義郎は、「医学の最終目的は決して死なない永遠の身体を作ることだと子どもの頃は思い込んでいたが、死ねないことについての苦痛は考えてみたことがなかった」と思うのだ。

義郎が曾孫の面倒を見ているのは、義郎と曾孫の間に介在すべき世代の人間がみな姿をくらましてしまったからだ。義郎の妻鞠華は、子どもの天南を託児所にあずけて自分は独居生活を楽しんだのであるし、その天南の生んだ息子、つまり義郎の孫は、自分の子どもの面倒を祖父の義郎に押し付けたままだ。無名の母に当たる女性はすでに死んでしまっている。彼女が生んだ無名を、義郎の孫は、自分の子ではないと思っているようだ。それで並の父親なりの愛情をもてないのだ。

無名は、自分に両親がいないことを全く気にしていない。かれの同級生の誰もが、やはり両親と一緒に暮らしていないのだ。この世界では、子どもはだいたい公の施設で育てられる。無名のように、曽祖父とはいえ肉親に育てられているケースは珍しいのだ。

鎖国をしているせいもあって、この国では外来語が禁止されている。たとえば「テンション」という言葉は外来語だから使わないほうがよい。だが「ツレション」はどんな国粋主義者も認める紛れもない立派な日本語だから、どんどん使って、友達と一緒に尿をハッスルとよい。

無名の学校の担任教師夜那谷は、あるプロジェクトにかかわっている。それは優れた子どもをインドに送って、立派な子ども育成のための実験材料に供するというものだった。このまま子どもの状態を放置していては、地球はやがて死なない老人ばかりになってしまうだろう。地球の持続可能性のためには、立派な子どもを育成しなければならない。そんなわけで、夜那谷は無名に白羽の矢を立てている。そのプロジェクトに選ばれた子どものことを「献燈使」というのである。それとは別に、義郎は「遣唐使」という小説を書いたことがあった。かれは、売れないながらも、れっきとした小説家なのである。もっとも誰にも読んでもらえないようだが。

無名が「献燈使」になったのは十五歳のときだった。その時義郎は百十五歳になっていたのである。十五歳で「献燈使」になったことを無名は、未来の記憶を遡るという形で思い出す。その頃の無名の体力はいっそう低下し、自分の足で立っていられないほどだった。一方曽祖父義郎の身体はまだまだ丈夫で、始終せわしなく働いていた。

さて、「献燈使」には、かつて親しくしていた女の子睡蓮も選ばれていた。睡蓮は、あたしと一緒にいかないかと無名に誘うのだが、無名はそれに応える。そうすることで、自分がほかのものを犠牲にして、睡蓮についていくのだと思わせようとしたのである。それはある種の恋愛感情がさせたのだろう。だがそう思った瞬間に、無名の股の間に変化が生じた。女の子になっているのだ。こういう性転換は、この世界ではよく起こる。それをこの世界では「環境同化」と呼んでいる。いまの世界で「突然変異」と呼んでいるのを、未来のこの世界では環境同化と呼んでいるのだ。

ところが無名のそうした記憶は、どうやら夢だったようだ。無名が夢から覚めると、義郎と夜那谷先生の不安そうな顔が目の前に見えた。そこで安心させてあげようと思って話しかけようとしたが、舌が動かない。「せめて微笑んで二人を安心させてあげたい。そう思っているうちに後頭部から手袋をはめて伸びてきた闇に脳味噌をごっそりつかまれ、無名は真っ暗な海峡の深みに落ちていった」

かなり劇的な転回で終末を迎えるわけだが、その転回があまりに急なので、読者はちょっとした混乱に巻き込まれるかもしれない。

なお、この小説の中のディストピアが原発によって生じたらしいことは、小説の中では示されていない。そう思うのは、あくまで状況判断からである。ただ、講談社文庫の中に一緒に収録されている「不死の鳥」では、その状況判断を裏付けるような記述がある。福島につづいて各地で原発事故が頻出したおかげで、日本はすっかり放射能に汚染され、日本人の体質に重大な変化が起こったと書かれている。百二十歳を過ぎた老人は、死ねなくなってしまったといって嘆き、若いとは、立てない、歩けない、眼が見えない、ものが食べられない、しゃべれない、という意味になってしまったというのである。まさに「献燈使」の世界で起きていることである。



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