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雪の練習生:多和田葉子を読む


「雪の練習生」は、ホッキョクグマによる語りという体裁をとっている。語っているのは、親子三代にわたるホッキョクグマたちだ。最初は祖母が語り、ついでその子が語り、最後に孫が語るという構成に、基本的にはなっている。基本的にはというわけは、子のパートにおいては、語り手が分裂しているからだ。まずウルズラという名の人間の女性が、サーカスの相棒であるホッキョクグマのことを語り、ついでそのホッキョクグマがウルズラと自分のことを語るというふうになっている。しかもそのトスカという名のホッキョクグマは、自己同一性を保った存在ではなく、途中で生まれ変わったということになっている。

最後の語り手はクヌートというオスのホッキョクグマ。アンカーに相応しく、親子三代の語りを集大成する役割を果たしている。小説の中では明示されていないが、このクヌートというホッキョクグマには実在したモデルがある。ベルリンの動物園にいたホッキョクグマで、多和田がこの小説を書いた時にはまだ生きていた。このホッキョクグマは、母親が育児放棄したために人間の手で育てられたのだが、生まれた時から人間と暮らしていたおかげで、人間と仲良くする能力があり、そのことで人気者になった。動物園では、その人気を活用して、地球温暖化防止キャンペーンのマスコット・ボーイにした。要するに人間に親しまれた動物だったわけだ。同じく人間に親しまれた動物としてパンダがあるが、パンダはたんに姿形の珍しさが唯一の売り物なのに対して、このホッキョクグマは、ある種のインテリジェンスを感じさせたようなのである。

多和田は、こういう背景を意識しながら、この小説を書いたのだと思う。クヌートという名も、その母親のトスカと父親のラルスの名も、事実通りである。クヌートが環境保護キャンペーンに活躍するという設定も事実を踏まえている。そんなわけで多和田は、このクヌートというホッキョクグマに興味を覚え、人間とは違った視点から、人間の世界を書いてみたいと思ったのではないか。それ故小説のハイライト部分はクヌートが語る第三部「北極を想う日」にある。第一部の「祖母の退化論」論と第二部の「死の接吻」は、小説に厚みを持たせるために、多和田が彼女なりに挿入したものだと言えよう。

それにしても、ホッキョクグマに小説の語り手をやらせるという発想は面白い。すでに漱石の猫という先鞭があるとはいえ、このホッキョクグマは、親子三代にわたって語り手をやっているので、その語り方にはある程度のバラエティがある。祖母はロシア生まれで西側に亡命したということになっており、母は東ベルリンのサーカス団にいるという設定になっている。孫のクヌートは東西統一後の現代ドイツの動物園で生きている。そんな境遇の違いから、彼らの語り方にはかなりな相違がある。その相違が、小説全体を豊かなものにしているわけだ。技法の巧拙を別にすれば、アイデアとしてすぐれていると言えよう。

祖母は、まるで自分が人間であるかのような語り方をする。彼女は、生まれた直後の印象を語ることから始めるのだが、その印象とは、自分と世界は肛門を通じて結びついているというものだった。語りの冒頭で彼女はこのように言うのだ。「宇宙が全部、自分の肛門の中に吸い込まれていくような気がした。わたしは腸の内部に宇宙を感じた」

こういう感じ方はおそらく、自分が世界から分離していないということだろう。自分と世界とは一体化している。そういう一体感なら、人間も感じることがあるはずだ。生まれた直後には、自我などというものはなく、世界は対象的なものとしては成立していない。だいいち、意識の分別作用も働いていない。そうしたあり方は、発達のうえで誰もが通り過ぎる段階だ。ただ意識していないだけである。もし意識するとすれば、このホッキョクグマのように、肛門の中に宇宙を感じる、という具合になるのだろう。その宇宙には、自我と対象世界とが未分化のまま含まれているに違いない。

祖母はまた、「母の記憶がまだ舌に残っていたので、彼の人差し指を口にくわえて吸うとほっとした」と言う。彼とは人間のことで、その人差し指を口にくわえるのは乳を吸う仕草の模倣かなにかだろう。つまり祖母は人間によって育てられたわけだ。それは孫のクヌートも同じことで、かれは自伝の冒頭で、人間によって乳を与えられる様子を回顧している。こんな具合だ。「口に乳首が突き付けられる。思わず顔をそらしても、乳首は口にくっついてくる。脳がとろけそうになるくらい甘い匂いに誘われて、鼻がひくひくし、口がだらしなく開いてしまう」。ここで乳首といっているのは、哺乳瓶の吸い口であろう。

こんなわけで、祖母と孫は、人間に育てられたという属性を共有している。そんな彼らの人間を見る目には厳しいものがある。たとえば祖母のこんな観察だ。「人間は痩せているくせに動きが鈍く、大事な時に何度もまばたきをするので敵が見えない。どうでもいい時はせかせかしているくせに、大事な戦いの時には動きが鈍い。戦いには向いていないのだから兎や鹿のように賢く逃げることを考えればいいのに、なぜか戦いが好きなのがいる。人間ほど愚かな動物を誰が作ったのか。人間が神様の似姿などと言う人がいるが、それは神様に対して失礼である」。またこうも言う。「微笑みは人間が顔にのせる表情のうちで最も信用できないものの一つだということが分かってきた。人間は自分の寛大さを売りつけ、相手を安心させて操作するために微笑む」

クヌートはまだ子供なので、そんなに鋭い観察はしない。ただ人間たちが自分をぬいぐるみのようにかわいいと言うのに対して、侮辱を感じたりする。その人間は、ホッキョクグマの目を見ると驚く。どんな強い光に直面しても平然としているし、だいいちその眼には何もうつらない。真っ黒なのだ。瞳は鏡のように物を映すと思いこんでいる人間は、ホッキョクグマの瞳が何も映さないのにびっくりするのだ。それがクヌートには不思議に思える。

一方、母のトスカは、人間と対等に接している。彼女は東ドイツのサーカスで、花形芸人になっている。その芸は母親ゆずりだと言われている。彼女は自分の芸で自律しているのだ。そんなトスカが、自分のパートナーであるウルズラの伝記を書いたりする。始めはウルズラがトスカの伝記を書いていたのだが、トスカより自分自身の自伝のようなものになってしまった。しかも完結できないでいる。その未完の部分をトスカが引き継ぐのだが、そのトスカは途中で生まれ変わったということになっている。生まれ変わりを通じて、別の個体が一体化するというのは、いかにも日本的な発想だ。おそらくドイツ人を含めたヨーロッパ人には理解できないのではないか。

こんなわけで、漱石の猫が21世紀にホッキョクグマとなって復活し、しかも生まれ変わりを繰り返して、複数の人格になって世の中を観察する。そういったふうの小説であると言えよう。なお、この小説の発表後まもなくして、実在のクヌートが死んだ。



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