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尼僧とキューピッドの弓:多和田葉子を読む


尼僧というと、小生などは修道院で禁欲的に暮す女性を思い浮かべ、したがってカトリックと結び付けてしまう。じっさいそのとおりらしく、プロテスタントには原則として修道院はないそうだ。原則として、というのは、例外もあるということで、この小説が描いているのは、そうした例外的な修道院で暮す尼僧たちの生き方なのである。ドイツでは、ルソーが宗教改革を起したとき、カトリック教会を攻撃したが、修道院をあえてつぶそうとはしなかった。それで一部の修道院が生き残り、そこに生きていた尼僧たちも生活拠点を失わないでもすんだという。この小説が描いているのは、そんな古い修道院に暮す尼僧たちなのである。

その尼僧たちが暮す修道院に日本人の女性がやってくる。彼女はその修道院の院長から招待されたのだった。院長が彼女を招待したのは、日本文化特に弓道と禅に関心をもっていたからだ。この修道院が外部のものを比較的簡単に受け入れるのは、この修道院の存立目的が、信仰よりは建物の保存にあるからだ。古い建物なので、手入れが滞ると破壊が進んでしまう。そこで建物の収容能力にあわせて十人前後の尼僧を住まわせ、建物の維持管理をまかせれば一石二鳥の効果が上がる。そんな思惑から尼僧たちを住まわせているというのだ。

一石二鳥というのは、信仰の維持と建物の維持と、二つの維持が同時に図られるという意味だ。この修道院は、本体の教会に付属していて、一応はきちんとした宗教施設なのである。だから尼僧たちは、共同での礼拝をはじめ、さまざまな宗教儀式に参加する。そのかたわら自分の生活を維持し、それとあわせて建物の管理にかかわる。なかなか面白いシステムになっているわけだ。

尼僧というのは、基本的には独身女性である。だから家庭をもった女性は入ることが出来ない。入ることが出来るのは、未婚の女性か離婚した女性である。そうした女性の集団のなかに日本人の女性が入っていくわけだが、語り手であるその女性も無論未婚者という位置づけだ。彼女が修道院にやってきたわけは、宗教的な動機からではなく、どうやら文化人類学的な動機からのようである。じっさい彼女は、尼僧院での体験を書物にするのである。

語り手は、この修道院で、九人の修道女と触れ合うようになる。この九人のほかに、院長が居たのだったが、その院長は逐電していなくなっていた。逐電のいきさつについては、追々明らかにされていく。ともあれ語り手は、院長代理をつとめている透明美さんの好意に迎えられ、しばらく修道院に滞在することになる。透明美さんというのは、語り手が秘かにつけたあだ名である。語り手は他の八人の修道女にも、それぞれあだ名を付け、そのあだ名で彼女たちを呼ぶのである。前の院長は火瀬さん、その前の院長は老桃さん、長身の貴岸さん、病弱の陰休さん、聡明な少女のような流壺さん、杖をついている鹿森さん、弁護士だった若理さん、修道女候補生の河高さんといった具合だ。

小説は、以上九人の修道女たちと語り手との間の触れ合いのようなものを語っていく。劇的な事態は起こらない。修道院の中に流れる日常が淡々と語られるだけである。その語りのなかから、ドイツ人社会における修道院とそこに生きる尼僧たちの暮らしぶりが、自然と浮かび上がってくるように工夫されている。だからこの小説を読めば、じっさいにドイツの尼僧の修道院を観察したような気持になれるかもしれない。多和田の小説としては例外的に、実用性を備えたものだといえなくもない。

ドイツ社会において尼僧修道院の持つ意義はなにか。それはやはり女性が安心して暮らせることだろう。とりわけ近代以前のドイツにあっては、女性がひとりで暮すことはむつかしかった。さまざまな危険が取り巻いていたからだ。修道院の中にはそうした危険はない。女性は安心して暮らすことが出来る。また、若い女性の場合には、修道院に居さえすれば、「一日中お祈りとか聖歌の練習で忙しくて、変なことを思いつく暇がないから、親御さんたちも安心だった」という事情もある。ここで「変なこと」というのは、セックスをさしているらしい。修道女たちにもセックスへの関心はあるようで、彼女らが「自由」を主張するときは、自由とはセックスを意味するというのである。

いまは不在の院長が修道院を去ったのも「セックス」が原因だったということが明らかにされる。彼女は弓の先生と称して男を修道院に導き入れたが、その男とは彼女が別れてきた夫だった。その夫が妻の彼女を忘れられず、忍んでやってくるあいだに、二人の情愛が復活し、彼女は修道院を捨てて男とともに去ったというのだ。その彼女はやがて、この小説の後半部において、自伝という形で、自分の生涯を振り返るであろう。

院長が不在になったために、新しい院長を決めなければならない。その決め方が振るっている。だいたい教会の人事は、教会組織のトップの意向で決まると考えられているが、この修道院の場合はそうではなく、修道女たちの合意で決まるというのだ。修道女たちが院長の候補者を募集し、それに応じた人の中から、選考を行って決める。要するに修道女たちが、自分たちのために、院長を雇うようなものだ。小説の後半では、募集に応じた二人の女性について、修道女たちがそれぞれ評価するところが描かれる。それを読むと、院長の資質というのは、信仰の強さとか知識の豊富さではなく、内部的にはメンバーをまとめる力であり、外部に向っては院の利害を主張できる人だということがわかる。

そうなるのは、この修道院の存立目的と関連するのであろう。この修道院は、信仰共同体として存立しているよりも、歴史的に価値のある修道院の建物を維持することが主要な目的になっている。だから信仰より、現実的な打算が先にたつのはやむを得ないことといえる。結局誰が新しい院長に選ばれたか、それについては小説は語らない。

先ほども触れたように、小説の後半部は、「翼のない弓」と題して、前の院長の自伝という形をとっている。その女性が自伝を書く気になったのは、自分のいた修道院のことが一冊の本になったからだ。その本の中で自分の噂が語られている。それには自分にとって不本意な内容も含まれている。だから自分としては真実を知ってもらいたいという動機から、この自伝を書いたのだというのである。

その自伝とは、ある女の「ウィタ・セクスアリス」といった体裁のものだ。自我の主張が弱く、世の中の流れに身を任せてしまうような女性の生き方が描かれている。彼女は男に求められれば簡単にセックスに応じてしまう。その結果望まない妊娠をしたりもする。彼女は弓が好きで、ある男に弓の練習をしてもらっていたが、その男と男女の関係になる。女が性的なパートナーを持つようになると、つまり日常的にセックスをするようになると、特別なフェロモンのようなもの(多和田は「性交に誘う匂い」と言っている)を体から発散するようになるらしく、他の男が刺激されてセックスを求めてきたりする。そんなセックスにまつわる話しがあっけらかんと語られた挙句、彼女が男の浮気を理由に別れて修道院に入った経緯だとか、その男が修道院まで追いかけてきて、もとの鞘に収まった経緯が語られるのである。彼女たちが結ばれたのは弓を通じてであり、またいわゆる松棒杭に火がついたのも弓を通じてのことだから、その弓をキューミッドの弓というわけである。

その自伝の中で、ヘリゲルの話が出てくる。ヘリゲルというのは、日本の弓道や禅の紹介者として知られているので、弓がテーマのこの小説に縁がないわけではないが、多和田はヘリゲルの優勢思想のほうを話題にしている。ヘリゲルは、「支配者になるべき人間が北方民族に、奴隷になるべき人間はユダヤ人によって体現されている」と主張し、ナチスの人種差別を合理化したらしいが、そのことについて多和田はさらりと触れるだけで、とことん追求してやろうという姿勢は見せていない。あまりにも明確なものを、とやかく言うことに意味はないと考えているのかもしれない。



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