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容疑者の夜行列車:多和田葉子を読む


多和田葉子は都市めぐりが好きなようで、しかも世界中を股にかけて歩いているようだ。「百年の散歩」はそうした自分の趣味をエッセーふうにしたものだが、「容疑者の夜行列車」は小説の形で都市めぐりの醍醐味を楽しんでいる。タイトルにあるとおり、夜行列車で都市間の移動をしているのだが、そのタイトルに同じように含まれている「容疑者」という言葉が何を意味するのかよくわからない。この小説に出てくるのは容疑者ではなく、「あなた」と呼ばれる人なのだ。その「あなた」とは語り手の呼びかけの対象でもあり、また小説の主人公でもある。普通小説の主人公は三人称で呼ばれるか、それとも語り手自身であるか、そのどちらかなのだが、この小説の場合には二人称の「あなた」で呼ばれるのである。あまり例がないのではないか。

小説は十二の章とおまけの章からなっている。章は輪と表示されているが、それはこの小説が夜行列車の旅をテーマにしているからだろう。十二の章はそれぞれ特定の都市と関連付けられている。だいたいがその都市へ向って夜行列車の旅をするというような設定になっている。都市の分布は全地球的な規模だ。ヨーロッパからロシアにかけての諸都市に中国やインドの都市が加わる。日本とアメリカ大陸の都市は含まれないが、どこでもない町というのがおまけとして加わる。

冒頭の輪はパリへの旅だ。それはこんな具合に書き出される。「駅の様子がちょっとおかしい。ホームに人が嫌に少ないのである。それに、駅員たちがそわそわして、何か秘密でも隠しているようである。駅員をつかまえて、どうかしたんですか、と尋ねるのも妙であるから、黙って観察しているしかない。駅全体は化けの皮をかぶっているのに、あなたはそれを剥がすことができずにいる」

この文章は、「あなた」がこれからパリで体験する奇妙な事態を暗示していると共に、この小説全体の奇妙な雰囲気を表現しているようだ。読んでのとおり、こざっぱりした切れのよい文章である。多和田の初期の文体は、息の長いだらだらと続く文章が特徴だったが、この小説の文体はそれとは真逆である。どういう心境の変化で文体を変えたのか。

「あなた」はパリへ夜行列車で行って、劇場でパフォーマンスをしたあと、また夜行列車に乗ってハンブルグに帰ってくる予定だったのだが、フランスでは鉄道のストライキが行われていて、予定通りにならなかった。でも「あなた」は、「それでもいいではないか、どうせ旅芸人なのだから」と考える。こんな形で「あなた」がダンスをなりわいとする旅芸人だということが明かされる。「あなた」が地球上の色々な都市をめぐっているのは、旅芸人としての生き方なのだ。その「あなた」の性別は、なかなか明らかにされない。ただ文章の雰囲気からして女性だろうと見当はつく。それが断定的に明かされるのは、十二番目の輪においてだ。そこで、「あなたは、その頃、自分が女性で日本人であるというアイデンティティに少しも疑いを感じずにいた」という具合に、「あなた」の性別と国籍が明らかにされるのである。

もっとも「あなた」自身は、両性具有に親近感をもっているようである。七番目の輪の中では、自分が両性を具有しているという妄想が語られる。湯に浸かった「あなた」は、自分の「ふっくらとした乳房の間から、下の方で揺れている男性器が見える」といい、「女性器が腫れて大きくなり、男性器が腫れて上昇し始めた」と言うのである。「男性器が腫れる」というのはイメージとしてわかるが、「女性器が腫れる」とはどういうことか、ちょっとイメージが思い浮かばない。

十番目の輪では、一つの花にめしべとおしべが両方住んでいるのを見て、植物にとっては両性具有が普通なんだと気付き、「自分の心の中にも、女と男と両方住んでいるのかもしれない」などと、ふと思ったりする。

ヨーロッパの夜行列車では、乗車券のほかパスポートも車掌に預けると書かれている。何度も書かれているので、多和田の実体験に基づいているのだろう。小生がヨーロッパに旅した折には、そんなことはなかった。扱いが変ったのだろうか。小生が夜行列車に乗ったのは、二三年前のことで、モスクワからベリーキー・ノブゴロドまで移動したのだったが、その折には、車掌からパスポートの提示を求められることもなかった。

各輪相互に筋書き上のつながりはない。いったいこの小説は、半分エッセーみたいなもので、物語の面白さよりも、折につけての見聞の面白さに焦点をあてているようなのだ。見聞は発見と言ってもよい。世界の都市を巡り歩いていると、その都度新しい発見がある。その発見から生じた感想なり思索の手がかりなりを、多和田らしい軽快な文章で語っている。多和田らしいと言うのは、たとえば、「おかしくておかしくて、お尻から笑いが漏れそうになった」とか、「寝台車のベッドに横たわるのは、奇妙な棺桶にすうっと横から入って横たわるような気分である」といった具合だ。小生は寝台車のベッドを棺桶のように感じたことはないが、病院でMRIの装置にもぐったときには、棺桶の中のような圧迫感に見舞われた。小生には閉所恐怖症のケがあるのである。

十二番目の輪の中で、「あなたはもう、自らを『わたし』と呼ぶことはなくなり、いつも『あなた』である」という文章が出てくる。これはこの小説の主人公が「あなた」と呼ばれる所以を説明しているつもりなのだろうと思うが、なぜそうなるのか、いまひとつ論理がつながらなかった。もっとも小説は論理で成り立つものではないから、どうでもよいことかもしれないが。



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