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ペルソナ:多和田葉子を読む


多和田葉子は、日本の大学を卒業後ドイツのハンブルグで就職し、以来ドイツで暮らして来たそうだ。要するに移民のようなものだろう。ドイツは他の国に先駆けて多くの移民を受け入れてきた。特にトルコからの移民が多かったようだ。それらの移民は、ドイツ社会の中で、ドイツ人がやりたがらない仕事に従事し、ドイツ人社会からは疎外されがちなところがある。トルコ系のドイツ人ファティ・アキンの映画を見ると、そうした陰湿な差別が如実に描かれていて、憂鬱な気分にさせられる。

多和田のようなアジア人は、ドイツにはあまりいない。しかも、トルコ人などとは違って、労働力としてドイツに来たというより、日本の会社の都合とか、あるいは個人的な関心からドイツにやって来たケースがほとんどだ。だから彼女を見るドイツ人の視線は、トルコ人などに対するものとは違っていたと思う。しかし、外国人には違いないので、やはりなんらかの形で、差別的な視線の対象にはなったようだ。「ペルソナ」という小説は、ドイツに暮らす一日本人女性が、ドイツ人から有形無形でこうむる差別と、それに対する自分の反応を、解剖学的な視点から描いたものだ。

多和田の分身と思われる主人公道子は、ハンブルグの大学に留学しているという設定だ。その彼女がまずショックを受けたのは、知り合いの韓国人が、差別と偏見の犠牲になって心の病に陥ったことだった。ドイツ人は、表向きには外国人に親切に接しているが、いったん何かあると、差別の牙をむき出しにする。ドイツ人にとっては、韓国人も日本人も区別がつかないので、韓国人への差別が日本人の自分に向けられても不思議ではないと、道子は危機感を覚えたりする。だいたい彼女は、韓国人とかベトナム人に間違えられることが多いのだ。そんなこともあって、道子は東アジア諸国の人間に妙な親近感を覚え、自分を東アジア人としてアイデンティファイするほどなのだ。

彼女は和男という名の弟と同居している。その弟に向って自分を東アジア人だと言うと、弟は反発する。日本人には日本人らしさがある。日本人は、たとえば韓国人とは違う。人種的に優秀なのだと言いたいようなのだ。それに対して道子は、韓国人と日本人とは、有意に区別できるところはないと反論する。日本人より背の高い韓国人はいるし、顔つきだってよく似ている。そんなふうにして言い合っても、別に対立するわけではない。この姉弟は本当に仲が良いのだ。そんなかれらを、道子のドイツ人の友達トーマスは批判する。たとえ姉弟であっても、男女が同じ部屋で暮らすのは自然じゃないというのだ。ドイツ人にはそういう潔癖さがあるのだろう。だが日本人である道子と和男には、姉弟の関係に、性的な要素はまったくからまない。かれらは互いに無性であるかのように接しているのだ。

韓国人のセオンリョンが差別された理由はよくわからないが、差別の理由として、表情の乏しさがあげられている。仮面のように無表情だというのだ。だから表面ではやさしそうに振る舞っていても、仮面のような顔の下で何を考えているのかわからない。それに対してドイツ人は、表面と内面が一致している。ドイツ人が何を考えているかは、その表情から容易に読み取れる。要するに裏表がないのだ。そういう趣旨のことを道子も、たとえばトーマスから言われることもある。そんなこともあって道子は、自分の表情に必要以上にこだわってしまうのだ。日本にいたら決してそんなことにはならない。ドイツという社会の文化的な基盤のようなものが、道子に異邦人意識を植え付けるのだ。この小説は、ドイツで暮らし始めて日の浅い日本人女性が、ドイツ人の視線にさらされる自分を感じながら、ドイツ社会で異邦人として生きることの息苦しさを語っているのである。

あるとき道子はドイツ人女性の友達から、日本は戦時中に精神病患者を、中国人や朝鮮人を殺したように殺したのかしらと聞かれる。それに対して道子は知らないと答える。そのやり取りを和男に話すと、和男は、ナチスはユダヤ人だけでなく同性愛者やジプシーも殺したから、精神病患者を殺したっておかしくはないさと、ドイツ人への非難に話を切り替えるのだった。和男は和男なりに、愛国的な感情をもっているわけだ。たしかに、ドイツで暮らしていて、偏見や差別を意識させられると、自分が帰属する国家共同体によりどころを求めたくなるのは、ある意味自然な反応だ。

小説の後半は、ドイツで暮らしている日本人女性二人と小説の主人公道子とのやりとりが語られる。二人の日本人女性と一緒にいると、道子は自分を、原住民の家でお茶を飲ませてもらっている探検家のように感じるのだ。しかも彼女らと日本語で話そうとすると、特に本当に思っていることを言おうとすると、日本語が下手になってしまうのを感じるのだ。ドイツ人社会では、ドイツ人から疎外される感情を抱くだけでなく、日本人とも心からの交流ができないのだ。和男を除いては。和男だけには、道子は心から打ち解けることができるのだ。

小説のラストシーンは、道子が能面の深井をかぶってリーパーバーン街に向う所を描く。深井とは中年女の面だが、これをかぶると自分自身から解放されたような気分になれるのだった。自分自身から解放されることは、自分のアイデンティティを気にせずにすむということだ。普通アイデンティティからの開放は、人間としてのあり方からの逸脱を意味するはずだが、道子のような異邦人には逆に、一人の人間としての純粋なあり方を取り戻せるもののようなのだ。

ところでハンブルグのリーパーバーン街には、小生も行ったことがある。ドイツ有数の赤線地帯である。多和田はなぜそんなところを、自分の小説の舞台に選んだのか、俄にはわかりかねるところがあるが、それなりに興味をそそられるところでもある。



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