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三人関係:多和田葉子を読む


「三人関係」は多和田葉子の第二作。デビュー作の「かかとを失くして」と比較すると趣向の違いを感じさせる。まず文体があっさりとした感じになった。「かかと」のほうは、谷崎の饒舌体を思わせるような、息の長いねっとりとした文体で書かれていたのに対して、こちらはどういうこともない普通の文章である。その普通の文体で、かなり現実離れした話が展開していくので、読んでいる方としては、からかわれているような気分にさせられる。不思議な小説である。

三人関係というのは、三角関係の変種のようなものらしい。普通の三角関係は、一人の男を二人の女が奪い合う、あるいは一人の女を二人の男が奪い合うという構図だが、この小説で描かれる関係は、一人の女を一組の男女が共有するというような関係である。そこには対立とか嫉妬とかは絡んでこないので、通常の意味での三角関係とはいえない。そこで通常の意味での三角関係を連想させないように、三人関係という言葉を使っているように伝わってくる。その三人関係とは、どういう関係なのか。

その関係の性質をもっともリアルに感じさせるのは、綾子という登場人物が、ある夫婦と性的な遊びをする場面である。その夫婦は、画家の夫と作家らしい女の組み合わせなのだが、その夫婦がどちらも綾子を気に入っている。その綾子が夫婦の家を訪ねてきた機会に、夫婦は二人で綾子をおもちゃにする。綾子は夫のほうの膝を枕にして寝そべり、その綾子の下半身を妻がおさえる。すると綾子は自分の頭に夫である稜一郎のペニスが勃起するのを感じる一方、妻である秋奈の股間からペニスが覗いているのを見る。「どうして彼女がペニスを持っているのか」綾子はわけがわからなくなり、混乱する。もしかしたら、あれは本物ではないかもしれなとは思うものの、「もし贋物だとしたら、結果的には、何が違ってくるのか」とも思ったりする。そう思っているうちに、そのペニスは綾子のヴァギナに入り込んでくる。同時に稜一郎のペニスは一羽の鳥となって、飛び立つのである。

秋奈の持っていたペニスのようなものは、もしかしたらクリトリスの肥大化したものかもしれないが、小説はそういうことは言っていない。一方稜一郎のペニスは鳥になったと言っている。いずれにしても奇妙な話だ。

こんな具合だから、小生はこの小説を、読者をからかっていると言ったわけである。こんな話は現実にはありそうにない。実際現実ではないのだ。この小説の中で展開する出来事は、小説の語り手たる「あたし」が勝手に想像した話なのだ。綾子も稜一郎と秋奈の夫妻も現実に存在する人物として設定されてはいる。しかし彼等の行動は現実そのものではなく、語り手が勝手に想像したものなのだ。語り手は、自分が知っている三人の人物に、自分が想像した役割を演じさせ、それでほくそ笑んでいるのである。

「あなたの体験することは、あたしが書いたことだけなのよ」と語り手は言う。彼女が書くことには、綾子から聞いたことなど手がかりはあるが、それはあくまで手がかりであって、語り手はその手がかりをもとに、勝手な想像をめぐらせて、ありもしない話をでっちあげてはほくそ笑んでいるのである。だから、綾子が突然自分の前から去って、いなくなってしまうと、「私が作ってあげた三人関係を盗んで、逃げてしまった」と思うのだ。

綾子に逃げられても、語り手には彼女を追いかける手がかりはない。また、稜一郎、秋奈夫婦の家もどこにあるのかわからない。彼らは東京の西北郊外の貝割礼という駅の近くに住んでいるということになっているが、そんな駅は、東京の地図には見当たらないのだった。だから行きたくても行けないのである。すべては綾子の話が手がかりなのだが、なにせ語り手はその話を自分の想像の栄養源にしているだけなので、その話に現実の裏づけがなくてもたいして不便を感じないのだ。

こんなわけでこの小説は、ありえない出来事をさもありうるように語っているところにミソがある。ありうるように、というのは、語り手がそれを、自分自身の想像の産物として語るのではなく、綾子という第三者の話を紹介するという形で展開するからだ。だから読者も、その話を現実のこととして受け入れざるをえないハメになる。ところが後になって、語り手は、自分は綾子の話したことをそのまま再現しているのではなく、それを手がかりにして勝手に想像したのだと白状する。そこで初めて読者は、語り手にいっぱい喰わされたと覚るわけである。

語り手の想像力は、それはそれで独特の味わいを感じさせる。女のペニスはその一番味わい深いものだが、その他にもいろいろある。たとえば、綾子が秋奈を評して、彼女は本物の日本人ではないかもしれないという場面が出てくる。彼女がなぜそんなことを言うのか、その理由は、秋奈のセクシュアリティが日本人らしくないということだった。「日本人ならば、自然にこうやっているというセックスの仕方とか、心の動きとかあるでしょう。それが、なかったら、心が異常か、日本人でないか、どちらかでしょう」と言うのである。日本人らしいセックスの仕方がどういうタイプのものか、語り手は言及していない。それは読者の想像力のためにとっておいてあげる、というような、語り手の配慮が働いているのかもしれない。

ともあれ、この最後の引用文からも伝わってくるであろうように、この小説における多和田の文体は、気短かで断定的なものである。ありえないことを断定的に語ることほど、痛快なものはないかもしれない。


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