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痴呆の芸術:谷崎潤一郎の義太夫批判


谷崎潤一郎の小文「所謂痴呆の芸術について」は、義太夫の馬鹿馬鹿しさを痛烈に批判したものである。それも、谷崎が日頃懇意にしていた義太夫の巨匠山城少掾から、義太夫を擁護してくれるような文章を書いて欲しいと頼まれて書いたということになっている。山城は、谷崎の友人である辰野隆が義太夫のことを余りに悪しざまに言っていることが憤懣に耐えず、それへの反駁分を書いてもらいたいといってきたのだが、それに応えて書いた文章が、結果的には辰野隆以上に義太夫を悪しざまにいうことになったというわけなのである。

谷崎はまず、山城が何故自分に義太夫の擁護を頼んで来たか、その背景に目を向ける。そしてそれは自分が文楽の賛美者であると思われているからだろうと推測する。その上で、自分が文楽を愛するのは、人形のかもしだす御伽噺的要素を愛するのであって、義太夫を愛するからではない、自分はむしろ義太夫の荒唐無稽さ、馬鹿馬鹿しさを軽蔑する者であるとして、次のようにいう。「歌舞伎を痴呆の芸術と言い出したのは正宗白鳥氏であったと思うが、辰野の云うのもつまりはそれで、痴呆と言う点ではむしろ義太夫の方が本家であるから、恐らくその意味の悪口であろう」

義太夫のどこが荒唐無稽で、どこが馬鹿馬鹿しいのか。谷崎は「合邦摂州辻」を例にとって説明している。「所謂痴呆の芸術のうちでも此れなぞは最も典型的なもの」だというのである。

まず、この浄瑠璃が能の「弱法師」を下敷きにしている点を指摘したうえで、「あの謡曲の持つ高雅、幽玄、優美の味は、浄瑠璃のほうにはどこを探しても見られない。同じく仏教を取り入れながら、一方が瞑想的な日想観を凝らすのに、一方は騒々しい百万遍を操る。そういう相違が全般に行き渡っていて、あの弱法師の、単純で、自然で、素朴な物語から、どうしてああいう猥雑で、不自然で、晦渋な筋を考え付いたのか不思議である」といっている。

ここでいう筋とは、たとえば玉手御前を能とは違って善人に仕立て上げたうえで、弱法師を救うために自分の腹を父親に裂かせたりとか、それは玉手が俊徳丸に惚れていたからだとか、荒唐無稽な筋書きのことをそしていう。それは、「お客をハラハラさせておいて最後にほっとさせる、ということばかりに囚われて、ああでもないこうでもないと趣向をひねくり回した結果、遂にこんな不自然な筋をでっちあげたのだ、と見るのが当たってはいないだろうか」というわけである。

こういうことは合邦の玉手に限らず、鮨屋の権太にも、寺子屋の松王にも、陣屋の熊谷にもあてはまる。忠義のためには他人の子どもを殺すことさえ平気でする、こんな馬鹿げているばかりか、不道徳極まりないことが、義太夫ではあたりまえのことのように描かれる。こういって谷崎は、「いったい、江戸時代に生まれた他の浄瑠璃はそんなことはないのに、義太夫だけが変に残虐な場面を描くことを好み、血を見なければ承知しない文学と言った趣がるのはどうしたことか」と疑念を呈する。

ここでいっている他の浄瑠璃には近松のものも含まれているようで、谷崎は「巣林子(近松のこと)の物などはもっと素朴で、自然であったのに、世が降って、巣林子ほど天分のない、亜流や末流の作者が出るにしたがって、こういう風ないやらしいものに堕落した」と厳しく批判している。

もっともその近松でも、所謂世話物には自然の感情をうたったものが多いけれども、歴史物には荒唐無稽なのもある。例えば出世景清などは、景清は女を踏みにじってやりたい放題のことをしたうえで、頼朝と和解するということになっている。しかしそれでは、平家の侍たる景清は浮かばれないだろう。

ともあれ、かように義太夫を非難する谷崎ではあるが、全面的にこれを排斥するのかと言えばそうではない。義太夫も山城のような名人が歌うと、ほれぼれとするような気持になるし、時に旅芸人が門を流しているのを聞いて、つい恍惚としてしまうこともある。それは「何か理性を超越した、反抗しがたい郷土的感情の作用とでもいうのであろうか」と谷崎は言って、われわれが義太夫をこっそりと楽しむ分には別に問題はないと言っている。問題なのは、これを国粋芸術だなどと称して、大々的に売り込もうとすることなのだ、というわけである。

というのも、日本人だけで楽しんでいる分には問題はないが、これを西洋人に聞かせると様々なぼろが明るみに出るからである。「演じられている芝居そのものが馬鹿げているのみならず、それを国粋芸術だとか何だとか礼賛しつつ見物している客席の人間全体が馬鹿げて見えるに相違ないので、定めし外国人たちは、日本人と言うものを凡そ頭の悪い国民だと思うであろう」

かように谷崎は、義太夫そのものには同情すべき点があるとしながら、なおかつ批判すべき点があると言って、それを義太夫の国粋主義との結びつきということに求めた。それというのも、義太夫は一時衰えかかっていたものだが、それが息を吹き返したのは、戦争に便乗したからである、と断罪するのだ。そして、義太夫と軍閥政府との結びつきを、谷崎は次のように描写するのである。

「あの義太夫の知性に欠けているところ、矛盾や不合理を敢えてしてそれを矛盾とも不合理とも感じないところ、まるで小便でもするように簡単に腹を切ったり人を殺したりして、人名の重んずべきを知らないところ、非人間的な残忍性を武士道的だと思っているところ、それらは同時に軍閥政府の特徴でもあったからである」

谷崎がこの小文を書いたのは昭和23年7月のことである。当時はまだ戦争の記憶がまざまざと生きていて、多くの日本人はもう戦争はこりごりだと思っていた。そんな時に、相変わらず戦争を賛美するかのようなことを平然と続けている義太夫の古い体質が、谷崎には我慢ならなかったのであろう。

それにしても山城少掾は義太夫の擁護を託する人を間違えたようである。



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