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春琴抄:谷崎潤一郎の世界


谷崎潤一郎の作品「春琴抄」を評して川端康成は「ただ嘆息するばかりの名作で、言葉がない」と絶賛しながら、ただひとつ難癖をつけるとすれば、鶯と雲雀であるといっている。それらを語った部分が薄手に感じられる、「もし、鶯や雲雀の奥儀を極めた人が読めば、さう感じるであらうと、想像される」というわけである。

たしかにそうかもしれない。しかし谷崎はこの作品を鶯や雲雀を愛する人たちに向けて書いたのではなく、女性をこよなく愛する男たち、また自分の美しさにうっとりする当の女性たちに向けて書いたのであるから、川端の難癖はあまり意味をなさない。

というのも、谷崎は「盲目物語」、「芦刈」と立て続けに女性の美しさを書いてきたその延長線上に、女性賛美のいわば集大成のつもりでこの作品を書いたと思うからだ。だから、鶯や雲雀はさしみのつまのようなもので、主菜はあくまでも女性の美しさにある。その美しい女性が谷崎の恋の相手松子夫人であることはいうまでもあるまい

「盲目物語」ではお市の方に仕える按摩の口から、「芦刈」では美しい婦人に生涯を捧げた男の子どもと名乗る幽霊の口から、それぞれ一人称の語り物と言う形をとって女性賛美を展開した谷崎だが、ここでは三人称の形を取って、女性賛美の物語を紡ぎ出している。三人称と言っても、完全な意味での三人称ではない。登場人物たちに多大な関心を寄せるある人物が、その登場人物たちの生涯について、架空の伝記を材料にして詮索するというかたちをとっている。だから他人事ではない。他人事を語るのではないから、勢い当事者の語り口になる。それ故いわば一人称を拡大したような形を取ることとなる。つまり親密さの余り、登場人物たちに感情移入したようなところが、一人称の語り方を感じさせるのである。

この小説が第三者の立場からする客観的な事実描写といえぬことは、文章の形式にもあらわれている。それは事実にかんする説明的な文体と言うより、感情を込めた、訴えかけるような文体である。谷崎は「芦刈」の中でそういう文体を意識的に追及していたが、それがこの作品のなかでは見事に花開いている。たとえば句読点の扱い方。芦刈の中では読点を意識的に省いていたが、この作品では句点でさえもが最小限に抑えられている。句点や読点は論理展開をたどるための装置であって、したがって科学論文や説明的な文章においては必要なものだが、発話にあっては必ずしも必要不可欠なものではない。発話に必要なのは間合いであって、そうした間合いは、別に句読点によらずとも表現できる。谷崎はそう考えて、一人称的な小説においては、句読点にこだわらないのであろう。

この小説における女性賛美は谷崎独特のものである。谷崎は「芦刈」の中で女性のわがままさを、美しさとを共存させて描いていたが、この小説の中では、女のわがままは最大限に誇張されてサディスティックな様相を呈している。そしてその女性に子供の頃から仕える男は、女性のサディズムを受け入れるあまり、そこにマゾヒスティックな喜びを感ずるような具合になっている。つまり谷崎はこの小説の中で、「痴人の愛」において実験的に描いていた男女のサド・マゾ関係のあり方を全面的に展開してみせたのである。

谷崎のマゾヒズム傾向はどうも生来のもののようだが、それが全面的に展開するのは、松子夫人と出会った以降であると考えられる。谷崎は、松子夫人との関係におけるマゾヒスティックな喜びを作品の中で再現してみたいという、そういう強力な衝動に駆られて、わがままな女とそれに服従する男の物語を紡いでいるうちに、この小説の中ではそれを全面的に展開することが出来た。そういえるのではないか。それ故この小説はまた、谷崎にとってはつきせぬ喜びの泉にもなったことであろう。

マゾヒストの喜びというのは、サディストによって痛めつけられることに感じる喜びであるが、この小説の中では、佐助は自分の手で自分の身体に痛みを加える。傷つける相手が自分自身であるとはいえ、日頃マゾヒストであった佐助は、自分に暴力を振るう場面においてはサディストになっている。一人の人格の中でサディストとマゾヒストが合体したといえる。これは二重の意味における倒錯である。他者によっていじめられることに喜びを感じるのが第一の倒錯だとすれば、その弱い自分に向かって自分自身がいじめを行う、これが第二の倒錯だというわけである。

しかし佐助が自分自身に暴力を加えて失明するのは、愛する人と一体になりたいという願いからだった。それ故佐助は恍惚感の中で自分の目に針を刺すことが出来たわけである。その恍惚感のなかから怪しい情念が沁み出してきて、読者をも擒にしていく。これは実に恐ろしい物語である。



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