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谷崎潤一郎自己を語る:「神童」と「異端者の悲しみ」


谷崎潤一郎の二遍の中編小説「神童」と「異端者の悲しみ」は、ともに谷崎自身の自伝的色彩が強い作品だと解釈されている。前者が少年時代を、後者が作家としてデビューする直前の青年時代を描いたものだということになっている。

こうした解釈が広がった背景には、谷崎自身のコメントも作用している。谷崎は「異端者の悲しみ」の「はしがき」のなかで「周囲の人物は別として、少なくとも此の小説の中に出てくる四人の親子だけは、その当時の予が心に事実として映じたことを、出来る限り、差し支へのない限り、正直に忌憚なく描写した物」であり、「此の意味において、此の一篇は予が唯一の告白書である」といっているのである。

実際、「異端者の悲しみ」の中で描かれている主人公の妹は、谷崎の一番上の妹園をモデルにしているというのが定説になっている。

それにしては大胆な描写である。もしもこれらの小説の中の主人公の姿や考えが、現実の谷崎自身を描いているのだとしたら、これほど自虐的な自己描写はありえないだろう。というのも、これらの作品に描かれた主人公は、およそ健全性とは縁遠く、堕落しきった、悪徳の塊のように見えるからである。それは、後になって谷崎が「痴人の愛」などで描いて見せたあの倒錯した生き方が、実は自分自身の生き方でもあったということを、公然と認めたといってもよいほどだ。

そうだとしたら、谷崎は自らの倒錯した人生観を、作品の中でそのまま展開したのだということになる。谷崎が描き出した妖艶で背徳的な世界は、谷崎の頭の中にだけ存在するファンタスティックな作り物などではなく、谷崎自身の実人生を投影しただけなのだといえそうだ。谷崎は作品の世界のみならず、現実の世界にあっても、世人の目から見れば倒錯した生き方に沈殿していたということになるわけだ。実際、谷崎は実人生においてもマゾヒストであったとか、あるいはサディスティックな面をもっていたなどの証言もある。

「神童」は、神童と呼ばれるほど頭の好い少年の物語である。少年春之助は、自分自身でも頭が良いと自認し、周囲からもおだてられているうちに、至極傲慢な人間となり、子ども仲間はもとより、学校の先生や自分の両親でさえ軽蔑しないではいられない。自分は古の聖人君子と肩を並べる偉い人間なのであり、周囲の大人たちは無自覚に生きているだけの情ない連中なのだ。

「神童」の春之助は両親と妹との四人家族で日本橋薬研掘のあばら家に住んでいるが、家が貧しいために、小学校卒業後あやうく丁稚奉公にやられそうになる。少年は、自分のような聖人君子がこのまま丁稚になるのは世の中の不合理だと反撥する。そこへ幸いに、学校の校長が春之助の才を惜しんでくれ、春之助の父親の店の主人に頼み込んで、学資を出させる算段をしてくれる。こうして少年は、主人の家に寄宿しながら学校に通うかたわら、主人の子どもたちの家庭教師役を務めることとなる。

このあたりのシチュエーションは、谷崎自身の少年時代を反映していると言われる。谷崎の実の父親倉五郎は婿養子に入ったのだが、家業を傾けて、息子の潤一郎を中学校に通わせる経済的余裕がなかった、そこで谷崎の才を惜しんだ小学校の教師が、住込みの家庭教師の口を世話してやり、谷崎はそのおかげで中学校に進学できた。こうした少年時代の自分の境遇を、谷崎はこの小説の中で、再現しているわけである。

主人の家に住み込んだ「神童」春之助は、その小さな世界にあって、自分の身の丈に合った生き方をするようになる。傲岸不遜な春之助でも、自分の立場はよくわかっているから、主人夫妻に対しては、犬のように服従する一方、自分より弱い者、たとえば主人の長男玄一には居丈高な態度をとり、時には頭を殴ったりして虐待する。主人の子どもでも、自分より年上の娘鈴子には慇懃な態度で接する。数人いる女中との関係では、それぞれとの間で微妙なバランスをとっている。春之助は、心の中では相手を馬鹿にしながらも、人間関係には相応に気を使うわけなのだ。

「世の中は出鱈目である。自分は天才である」 これが春之助のモットーだ。春之助はこのモットーを心の中に掲げて、世の中を斜視している。ところが、そんな春之助を悩ませることがひとつあった。それは、主人たちの贅沢をつくした暮らしぶりが、うらやましく映じたことである。主人たちは毎晩うまいものを食い、歌舞管弦に打ち興じている。春之助にはそれがまばゆく映るのだが、不幸なことに、自分はその輪の中に入れてもらえない。それでも、なにかの拍子に御馳走の御相伴にあずかれることもある。そうこうしているうちに、春之助は、なんとかしてその御相伴にあずかる機会が増えないものかと、賤しいことばかり考える卑劣な人間になっていく。

春之助は、自分が天才であることなど忘れてしまって、目先のことばかり考える、情けない状態に陥っていく。そうなると、自分の欠点ばかりが目につくようになる。自信を失った春之助は、自分の容貌にも自信が持てなくなる。容貌の醜さに加え、運動能力の拙劣さも自虐のタネになる。ようやく思春期に差し掛かろうという頃になった春之助は、マスターベーションの悪癖に耽るようになる。こんなことをせずとも、生きた女を抱くことができたらどんにかいい気持ちがするものかと、マスターベーションをしながら、春之助はますます落ち落ち込んでいく。

こうして春之助は、「己は子どもの自分に自惚れていたような純粋無垢な人間ではない」と気づくのであるが、その一方で、「己はいまだに自分を凡人だと思うことはできぬ。己はどうしても天才を持っているような気がする」と思わないではいられないのである。

「異端者の悲しみ」は、大学生になった春之助が章三郎という名前で登場する。章三郎は両親の家でゴロゴロしている。大学の友人との間で不義理なことがあって、大学に行けない事情があるのだ。そこで章三郎は自分の部屋にこもって妄想に耽ったり、便所に閉じこもってマスターベーションに熱中するのである。

章三郎の妹は肺結核で死にそうな状態にある。そんな妹に対して章三郎は一向に同情することがない。章三郎は、自分のこと以外に気を使うということがないのだ。

章三郎は時々大学の学生仲間と羽目をはずして遊ぶことがある。金がない章三郎は、他人の懐をあてにするのだが、そのことが章三郎を卑屈にし、幇間のような人間にしていく。学生仲間はそんな章三郎を、気晴らしのタネくらいに考えて驕ってやることもある。

こんな具合で、この小説は章三郎と言う人間の、人間として鼻持ちならない側面を、オン・パレードのように盛り込んだ作品だ。「神童」もそうだが、読んで面白いということはない。不愉快な気分になるのが関の山だ。

一体、谷崎はどんなつもりでこんな小説を書いたのか、読んでいて不可解な疑問に駆られることもある。しかし、そんな疑問を小説の持つ勢いのようなものが吹き飛ばしてしまう。不思議な作品だ。



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