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夏目漱石夫妻と「道草」


「道草」は漱石の自伝的小説とされていることもあって、そこに描かれた主人公の健三とその細君との関係は、実際の漱石夫妻の姿をかなり反映したものと思われてきた。たしかに、小説の中の「細君」の履歴は、現実の漱石夫人鏡子のそれと殆ど同じである。高級官僚の家に生まれたこと、公教育は小学校だけであとは家庭の中で教育されたこと、その結果世間知らずで我儘な女になったらしいことなどだ。また健三が田舎に赴任している間にこの女性と見合い結婚したとなっていることは、漱石が五高の教師として熊本にいる時に鏡子と見合い結婚したことと重なるし、健三が海外留学するについて実家に妻子を預かってもらったというのも、漱石夫妻の間に実際にあったことだ。

こういうわけだから、この小説の中の細君の姿が、実際の鏡子夫人と重ねられて、鏡子夫人はこのような女性だったのだろうという臆見が独り歩きしたのだろう。漱石の死後、鏡子夫人は悪妻だったという評判が立ったのには、ひとつは彼女が亡夫について語った不用意な発言にも理由があるが、大部分はこの小説に描かれた健三の細君像に根差していると言える。それほどこの小説の中の細君は、悪妻と呼ばれてもおかしくないようなところがある。

とにかく、小説を読んでの印象は、この夫婦は心が通じ合っていないのではないか、ということだ。すでに小説の冒頭の部分で、「機嫌のよくない時は、いくら話したい事があっても、細君に話さないのが彼の癖であった。細君も黙っている夫に対しては、用事のほかけっして口を利かない女であった」というような文章が出てくる。夫の健三には、機嫌の良い時など殆どないわけだし、細君は細君でそんな夫に口を利いても無駄だと悟りきっているようなのである。

互いに口を利かないくらいなら、まだそんなにひどいとは言えない。この二人が口を利く時は、ほとんどが罵りあいと言っていいような殺伐とした会話に終始するのである。

二人は、自分たちの仲がよくないのは、相手の所為だと互いに思っている。健三は同情に乏しい細君を冷淡な女だと思い、「細君の方ではまた夫がなぜ自分に何もかも隔意なく話して、能動的に細君らしくふるまわせないのかと、その方をかえって不愉快に思った・・・そのくせ夫を打ち解けさせる天分も技量も自分に十分具えていないという事実には全く無頓着であった」といった具合なのである。

そこで二人とも相手が悪い理由を、自分なりに解釈する。健三にとっては、細君が悪いのは教育が足りないからだということになる。細君は無教育で頭が馬鹿だから何を言っても甲斐がない、というわけだ。一方細君の方では、夫が悪いのは、夫が世の中と調和することができない偏屈な人間だからだと解釈する。どうも、細君には、男の理想は自分の父親の姿にあるので、夫をそれと比較して評価しているフシがある。父親は高級官僚をつとめた人間で、世の中の事情にはそれなりに通じており、人付き合いも如才ない。それに対して夫の健三は、世の中と調和できずに自分の殻に閉じこもっている、というわけである。

細君にとって、夫の最も気に入らないところは、その権威的な態度のようである。夫の健三には、我々読者の目にも権柄づくなところがある。彼は、女というものは男に従属した存在なので、男を喜ばせるのが当たり前だ、それを、妻として夫を喜ばせないばかりか、ふてくされて夫をいらいらさせるようではけしからぬ、というようなところを常に漂わせている。それが細君には鼻持ちならない。

細君は比較的自由な雰囲気の中で育ったというようなことになっている。だから因習的な物の見方に毒されていない。女が男の付属物だとか、男の言うなりになるべきだとかは考えない。だから健三が、「あらゆる意味から見て、妻は夫に従属するものだ」と構えるのに対して、「いくら女だって、そう踏みつけにされてたまるか」と反発する。それを見た健三は、「女だから馬鹿にするのではない。馬鹿だから馬鹿にするのだ。尊敬されたければ尊敬されるだけの人格を拵えるがよい」と言って、いっそうイライラを募らせるのである。それに対して細君も、「あなたに気にいる人はどうせどこにもいないでしょうよ。世の中はみんな馬鹿ばかりですから」と憎まれ口を叩くわけである。

だが二人の反発は決定的な事態にまでは発展しない。「幸いにして自然は緩和剤としてのヒステリーを細君に与えた。発作は都合よく二人の関係が緊張した間際に起った」からである。妻がヒステリーで倒れれば、健三でなくとも、世の中の夫なら大概が心配してやさしくするように努めるだろう。

夫の健三が、昔の養父母と再会して、いろいろ面倒に巻き込まれていく過程を、細君は脇で冷やかに見ている。健三にとって養父母は、嫌な思いばかりまとわりついたような存在だが、それでも育ててもらったことに伴う、ある種のノスタルジーのようなものを感じることも禁じ得ない。両義的な感情に襲われているのだ。ところが細君のほうでは、そういう微妙な事情に同情する気配はない。この養父母は、法的にも世間的にも全く縁の切れた人々で、今さら相手にする必要はない。だから自分としては、この二人に全く関心を示す言われもないわけだ。そしてそういうような思いを、行為にも出す。彼女にとって今更に現れた夫のかつての養父母は疫病神以外のものではない。だが、健三の方ではそんなに簡単に割り切れるものではないと言う感情がある。この二人の感情のすれ違いが、小説の最後の所でクローズアップされる。

夫が養父に金を渡して、一応因縁に決着がついたところで、細君が「安心よ、すっかり片付いちゃったんですもの」と言うのに対して、健三が「片付いたのは上部だけじゃないか。だからお前は形式ばった女だというんだ」とたしなめる。これに対して細君の顔には不審と反抗の色が見えたが、すぐに気を取り直して生まれたばかりの子どもをあやしにかかる。これ以上夫に何を言っても、唇が寒くなるばかりだといわんばかりに。

こんなわけでこの小説における健三と細君との関係は、最初から最後まで擦れ違いのままである。もしこの関係が漱石と鏡子夫人との関係においてもその通りだったとすれば、あるいは鏡子夫人は悪妻のそしりを免れないかもしれない。



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