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「こころ」と「それから」:漱石を読む


夏目漱石の二つの小説「こころ」と「それから」は、色々な面で深くつながったところがある。まずテーマが似ている。両者とも男女の三角関係のもつれを扱っている。二人の男が一人の女を巡って不幸な関係に陥るというものだ。ただ多少の違いはある。「それから」では、主人公の代助が友人の平岡に対していったん女を譲った後で、その女を奪い返すという風になっているのに対して、「こころ」では、女への愛を告白した友人を出し抜く形で女を自分の物にした男が、そのことで良心の呵責を感じ続けるということになっている。つまりベクトルが違う方向を向いているといえるわけだが、男女の三角関係という構図は共通しているわけだ。

「それから」の代助は、美千代という女を心から愛しており、美千代のほうもその愛に応えたいと思っていたにかかわらず、後から彼らに加わった平岡が美千代を自分の妻にした。そのときに代助は、平岡から美千代を守ろうとしなかったばかりか、自分が仲人の労をとって二人を結ばせてやった。そのことで、美千代は代助に捨てられたと思ったのである。しかし、代助には捨てたという意識はない、捨てたのではなく友人に譲ったという気持ちである。しかし、その気持ちが、美千代が必ずしも幸福でなさそうな様子を見るにつけ揺らいでくる。その揺らぎが美千代への強い愛となって高まっていく。挙句の果てに代助は、美千代に姦通を犯させるような形で、彼女を奪い返すのだ。

一方、「こころ」の若き「先生」は、友人のKとともにある未亡人の家に下宿している。その未亡人の美しい娘を先生は愛するようになる。ところがKのほうも彼女を愛していて、そのことを先生に告白する。そうすることで、先生に仲人の労をとってもらいたかったのもしれない。丁度、代助が平岡の為に仲人の労をとったように。だが先生はその労をとらなかった。とらなかったばかりか、自分が先回りをして、未亡人にお嬢さんを嫁に欲しいと申し入れ、母親の後ろ盾を得る形で娘を自分のものにする。そのことで、Kは自殺してしまうのである。

このストーリーは、見方によれば、「それから」で展開したストーリーを逆にしたものだといえる。代助の場合にも、平岡の愛を尻目にして美千代を自分のものにする選択があったわけだ。もしそうしたとして、その選択の結果がどうなったか、それのひとつの可能なあり方として、「こころ」を書いたと言えなくもない。

「こころ」の先生は、自分が友人を出し抜いたおかげで友人を死なせてしまったと思い込むようになり、世の中に対して負い目を感じるようになる。愛する女性との結婚生活が楽しくないわけではないが、それを素直に喜べない。自分がもし幸福だとして、自分はそれに値しない。そんな自責の念にしょっちゅう苛まれているわけである。

こうしてみると、「それから」と「こころ」の、二つの小説に描かれた、同じような色彩の男女の愛には、理想的な結末というものがありえたのか、という疑問も湧く。男と女が愛し合うのに、人間はこんなにも理不尽な事態に直面しなければならないのか、と現代人の多くは感じることだろう。いくら親しい友人だからといって、自分の心から愛する女をくれてやるというのは、我々現代人にはなかなか理解できないし、ましてや好きな女を他の男に取られたからといって、自殺するような柔な男は現代社会には存在しないだろう。漱石がこの二つの小説で描いた男女関係というのは、いかにも旧時代的で、感情移入できないところがある。

この二つの小説は、何も仕事をしないでブラブラしている人間を描いているところも似ている。動機には多少の違いはある。代助のほうは、世の中の愚劣さと付き合うのは馬鹿げているという高慢な理由をつけている。一方先生のほうは、自分は世の中に大きな顔向けはできない、自分にはその資格はない、自分は世の中の日陰者としてひっそり暮らしているのが似合っている、という言い訳をする。代助は世の中をなめてかかり、先生は世の中を前に恐れおののくのである。

こうした二人の姿勢は、時代認識に大いにかかわりをもつ。代助は、明治という時代に積極的な意味を認めることができない。人々の頭の中は天保時代と全く変わらないのに、欧化の波に押し流されて、齷齪として生きている。だから自分はそんな時代とはかかわりたくないのだということになる。ところが先生のほうは、自分は結局時代の生んだ子なのだというような意識をどこかで持っている。明治天皇が亡くなったときに、先生が一つの時代が終わったのを感じ、その時代への殉死を思いつくのは、先生が自分を時代と強く結びつけて考えていたからだ。

この二つの小説で一番違っているところは東京の地理への言及の仕方だろう。「それから」では、代助が歩き回る道筋が、今日でも地図で一々たどれるほどに詳しく描かれている。その内容は先稿で紹介したとおりだ。「こころ」での地理への言及は、これに対して至極あっさりとしている。先生が雑司が谷墓地からさほど遠くないところに住んでいるらしいことは、行間から伝わってくるが、そこがどこなのかはわからない。また主人公の語り手がどこに住んでいるのかもよくはわからない。先生の家を夜の十時に辞して自分の下宿先に帰るという記述があるところから、先生の家からさほど遠くないところに住んでいると推測されるが、それがどこなのか良くわからない。

先生と語り手の二人が二度ばかり連れ立って歩くところが出てくる。一つは上野の動物園の周囲を歩き回るところ、もうひとつは郊外へ一時間ほどかけて歩いていく場面だ。上野のほうはともかくとして、後者の郊外がどこをさすのか、具体的な記述がない。ただ、先生の家から徒歩で一時間ばかりで、植木屋があるところということになっている。この植木屋は一軒だけ孤立しているというより、何軒か並んでいるようにも思えるから、もしそうだとしたら、駒込あたりではないかと推測される。徳川時代後期から明治時代にかけて、駒込あたりには植木屋が集まっていた。二人はまだ田園地帯の面影を残す駒込まで足を運んだのではないか。



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