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正岡子規自筆の墓碑銘


正岡子規は明治31年7月に碧梧桐の兄河東可全にあてて書いた手紙に添えて、自分の墓碑銘を送った。

  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
□月□日没ス享年三十□月給四十円

この文はそのまま墓に彫られてよいように、ほぼ墓と同じ大きさの紙に墨書するという念の入れ方だった。文中さまざまな名が列挙されているが、それらは子規が折節に用いたところの名であって、これらを読むとおのずから子規生涯の足跡がわかるようになっている。

常規は子規の本名、処之助は子規の幼名で四五歳ころまで用いられた。子規は後に越智処之助というペンネームで「日本人」誌上に文芸評論を発表するが、越智とは正岡氏の系図上の姓である。升は子規の通称で、高浜虚子ら松山出身の俳人たちはみな、この名を以て子規を呼んでいた。獺齋書屋主人は俳論を書く際の号で、竹の里人は和歌の号である。子規が住んだ根岸を竹の里にたとえたのだろう。

父母のことに簡単に触れた後、日本新聞社員たりと記し、丁寧に月給まで打ち明けている。実はこの文を書く直前子規は月給が上がって四十円もらえるようになっていた。その額なら母と妹と三人での生活を、何とかやりくりできるようもなった。それで子規は、日本新聞社に対して感謝の念を抱いていたのだった。

この墓碑銘を書くきっかけとなった手紙というのがまたふるっている。手紙を書く数日前に可全が扇子とシャンパンを土産に子規を見舞ったのだが、初めて飲んだシャンパンの味にすっかり感激した子規は、次のような文面の礼状をしたためたのだった。

「シャンパント扇アリガトーシャンパンハアノ日柳原ガ来テ飲マシタノニエオ飲ミイデナ
アシャ自分ガ死ンデモ石碑ナドハイラン主義デ石碑立テテモ字ナンカ彫ラン主義デ字ハ彫ッテモ長タラシイコトナド書クノハ大嫌ヒデ寧ロコンナ石コロヲコロガシテ置キタイノジャケレド万一已ムヲ得ンコツデ字ヲ彫ルナラ別紙ノ如キ者デ尽シトルト思フテ書イテ見タ コレヨリ上一字増シテモ余計ジャ 但シコレハ人ニ見セラレン」

シャンパンへの謝辞もそこそこに、自分が死んだ後の始末について語っているところが面白い。

子規がなぜこの時期にこんなものを書いたのかについては、さまざまな臆説がたてられてきた。自分の死期を悟って遺言を書く気になったのだろうとか、いやこの時期にはまだ体力が残っており創作欲も旺盛だったのだから、子規一流の諧謔趣味なのだろうとかいったものが、主なものだ。

可全は子規より三歳年下で、常磐会時代には一緒に俳句を作ったりベースボールに興じた仲だ。しかしその後俳句からは遠ざかり、従軍記者として満州の戦地に赴いたりして、帰還後は旧松山藩主久松家に仕えていた。それでも子規とは気の会う間柄で、生涯親しくした。だから自分の死後のことを託するに相応しい人物だと、子規が考えてもおかしくはない。墓碑銘には享年三十□とあり、子規はやはり自分がそう長く生きられないと思っていたことが伺われるのである。

子規はこの墓碑銘を書いた四年後に死んだが、そのさいこの墓碑銘が使われることはなかった。土葬後三年の間は「正岡常規墓」の五文字を記した墓標が立てられ、その後には陸羯南筆になる「子規居士之墓」なる墓標が立てられた。

この墓碑銘が日の目を見るのは子規の三十三回忌にあたる昭和九年のことである。そのときに子規の手筆のままに銅板に刻まれたものが、「子規居士墓碑銘碑」として墓のそばに立てられた。だがこれは後に盗難に会い、いまある墓碑銘は昭和十一年に再建されたものである。こちらは銅板ではなく石に刻まれている。



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