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柿食へば鐘がなるなり法隆寺:正岡子規の写生句


正岡子規は生涯に夥しい数の俳句を作った。だがその割に名句と呼ばれるようなものは少ない。筆者が全集で読んだ限りでも、はっとさせられるようなものはそう多くはなかった。むしろ退屈な句が延々と並んでいるといった印象を受けたものである。

まあ、筆者は俳句作りには熱心なほうではないので、鑑賞の仕方も邪道なのかも知れぬ。それにしても、明治の俳句の刷新者といわれる人物が、これでは寂しい限りといわねばなるまい。芭蕉と比較するのは気の毒かもしれないが、蕪村や一茶と比較しても、名句の数ははるかに少ないのではないか。

おそらくその理由は、子規が俳句においても写生にこだわったことだろう。その結果、季題や連句など俳諧のよき伝統をも軽視し、俳句から遊びの部分や優雅さを追い出してしまったのではないか。

写生というのは、印象のまとまりからなっているものだ。だからある程度の言葉数を必要とする。子規が和歌のほうでは非常な成功を収め、よい歌が多いのは、和歌の字数が写生に耐えるほど多かったせいだろう。

俳句というのは、表向きの言葉に表れていないものまでも、読者に想起させることによって成り立っている。それを容易にする工夫として、季語を始めとする約束事がある。子規はそれらを軽視して字づらだけで勝負しようとしたために、人に訴える俳句を多くは作れなかったのだ。

そんな中で、子規のもっとも有名な句は

  柿食へば鐘がなるなり法隆寺

であろう。国語の教科書にも必ず採用されているから、日本人であれば知らぬものがないほど、人口に膾炙している。その内実に関しては、それこそ何万という人が注釈を加えてきたので、ここで拙論を展開するつもりはない。ただ、この句が成り立った前後の事情について、紹介しておきたい。

柿は子規が最も好んだ食物だった。それを旅先で食っていると、法隆寺の鐘が聞こえてきた。季節は秋、恐らく鐘の音は、澄んだ空気を伝わって聞こえてきたのだろう。なんともほのかな旅情を感じさせる句である。

ところがこの句は始め、法隆寺ではなく東大寺近くの宿屋で着想されたのではないかとの説がある。日下徳一の「子規」という本によれば、次のようないきさつを経てこの区が作られたというのだ。

子規が奈良を訪れたのは、松山での漱石との共同生活を打ち切って東京へ戻る途中である。大病の後であるし、また脊椎カリエスのために腰が痛み始めた頃だったので、子規の健康状態は悪かったのだが、奈良を訪れることは年来の念願だった。

子規は奈良へ着くと東大寺南大門近くの角貞という旅館に宿をとった。そこでは

 大仏の足もとに寝る夜寒かな

という句を残している。子規が部屋で寛いでいると、旅館の女中が現れて、子規の好きな柿を剥いてくれた。そのときの様子を子規は、後に「くだもの」と題する随筆の中で回想している。

「此女は年は十六七位で、色は雪の如く白くて、目鼻立ちまで申分のない様にできてをる。生れは何処かと聞くと、月ヶ瀬の者だといふので余は梅の精霊でもあるまいかと思ふた。やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうっとりとしてゐるとボーンといふ釣鐘の音がひとつ聞こえた。彼女は初夜が鳴るといふて尚柿をむき続けてゐる。余には此初夜といふのが非常に珍しく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。」

子規はこのときの東大寺の鐘の音が余程頭に残ったのであろう。だから後に法隆寺で実際に鐘の音を聞いたとしても、その音が東大寺の鐘の音と重なった可能性がある。いやむしろ、東大寺の鐘を無理に法隆寺につなぎ合わせた可能性さえある。

子規が法隆寺にやってきたのは奈良に到着して四日目、その日の天候は上記の本によれば雨模様であったらしい。子規には法隆寺を詠んだ句がほかにいくつかあるが、それらは

 いく秋をしぐれかけたり法隆寺

のように、雨を読み込んでいる。柿食えばの句は、やはり冴え渡った空を連想させるので、雨の中で詠んだというのでは格好がつかぬ。

こんなわけで、子規のこの有名な句は、東大寺の鐘と法隆寺の鐘との合作だというのが、上記の本の推論の内容である。

この話はあれほど写生を重んじた子規には、あるいは相応しくないといえるかもしれない。しかしもし本当だったとしたら、子規にも食えない側面があったということを伺わせるに足る話である。



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