日本語と日本文化
HOME | ブログ本館東京を描く日本の美術日本文学万葉集プロフィール | 掲示板


瀬戸内寂聴「花に問え」:一遍上人に思いを致す


瀬戸内晴美が得度して寂聴を名乗ったのは昭和四十八年(1973)満五十一歳の年であった。出家の理由は煩悩から逃れることだったと本人も語っている。彼女は多感な女であって、つねに恋をしていた。その恋が彼女にとって煩悩のたねとなり、気の休まる時もなかった。五十の坂を超えたとき、さすがに煩悩に囚われた自分があさましく思われ、濁世を捨てて出家する気になったのだと思う。

出家後も筆をおくことはなかった。かえって旺盛な創作意欲を示すほどであった。だが、自分の体験をありのままに描く私小説の方法とは決別した。老年以後の彼女は、自分自身を離れて歴史や想像の世界に題材を求めるようになった。彼女の老年期の仕事のうち、とくに光って見えるのは、西行のような歴史上の人物の生き方に焦点をあてたものとか、谷崎潤一郎のような同時代の人間に深い興味を示した作品だった。「花に問え」もそうした作品の一つである。

「花に問え」は、時宗の開祖一遍上人の生き方をテーマにした作品である。だが、一休の人間像にストレートに迫っているわけではなく、この小説の語り手である一人の女性の生きざまが表向きのテーマであって、その女性の生き方に一遍上人の生き方を重ね合わせる形になっている。この女性は、一遍聖絵を通じて、一遍上人の生き方に深い関心を抱いており、しばしばかれの生き方に思いをはせながら、自分の生き方について考えを巡らせるのである。

一遍の生き方に関心を抱いているのは彼女のみではない。彼女の、すでに死んでしまった年上の愛人とか、近頃知り合ったばかりの旅の青年とかも一遍に強い関心を抱いていて、折につけてその関心を語り手の女性と共有するのである。

そんなわけで、小説としての劇的な展開には乏しい。もし劇的な要素があるとしたら、それは一遍上人の生き方自体に劇的なものがあったからだというふうに伝わってくる。一遍上人は、禁欲的でかつ度量の据わった人間というイメージが流布しているのだが、この小説では、一遍上人と行動をともにした女たちを通じて、一遍の愛欲の面にも光をあてている。もっとも、一遍は女を抱くようなことはしなかったと瀬戸内は割り切っている。一遍の遊行にはとかく淫靡な印象が伴うのが普通なのだが、瀬戸内はあえて一遍を性的に淡泊な人間として描いているのである。

一遍の人間的な淡泊さについては、小説のタイトルになった「花に問え」という言葉への言及にも現れている。三月の末、道場に時ならぬ時、紫雲がたち天から花が降ってくるのを見たものが、そのことを一遍に知らせると、一遍は、「花の事は花に問え、紫雲の事は紫雲に問え、一遍しらず」と答えたという。色々な解釈ができると思うが、一遍がものにこだわらぬ、淡泊な人間だったということもできよう。

その一遍を瀬戸内は、男らしい男として描いている。容貌が精悍で迫力があり、声も野太かったように書いている。挙動振る舞いが自信にあふれているように見えるのは、一遍が武士階級の出身だったからだ。一遍の同時代人である日蓮も、貴族ではなく庶民階層の出身だったが、一遍もまた庶民に近い目線の持ち主だったのである。一遍・日蓮以前の開祖たちがみな貴族階級の出身だったことに比べ、庶民層の出身だった一遍には、人間的な率直さを感じることができるということだろう。

寂聴が一遍にひかれたのは、宗教者としての共感からだろう。この小説を書いたとき、寂聴はすでに70歳を超しており、宗教者としての自覚も深まっていたと思われる。そうした自覚の上に立って、一遍に強い共感を覚えたようである。その共感はしかし、一遍の人間的な生き方に向けられており、一遍の宗教的な内面には深くは立ち入っていない。一遍を念仏の行者として捉えているのみであり、その念仏が、親鸞や法然のそれとどう違うかについては踏み込んでいない。これは小説なのであって、一遍についての評伝ではないのだから、それはそれでひとつのやり方だと思う。

この小説の醍醐味は、一遍の生きざまに重ねての語り手たちの生きざまを情緒的に描くことにあるのだが、それに加えて、一遍聖絵の絵解きもまた魅力がある。超一・超二母子との一遍の関わりとか、踊念仏の様子とかについて、聖絵に沿ってかなり立ち入った解釈をしている。その解釈は、寂聴自身の感性を基準にしたものなので、それはそれとして、興味深く受取ることができる。

なお、語り手の年上の愛人が、もと母親の愛玩物であって、それを娘の語り手が相続したという設定になっているのは、寂聴一流の趣向だと思うが、そういう設定は、物語り全体に不純な要素を持ち込むことになりかねない。実際この小説では、娘が母親の情夫を引取ったことに大したインパクトがみられるわけではない。ただ、語り手が情夫に向かって、
「おかあちゃんとあたしと、どないちがうの、母娘ってあの中も似てるのん」
と聞くのに対して、男が、
「おかあちゃんのは海の匂いだ、魚や海藻をかかえこんだ磯臭い匂い・・・お前のは森林の中の苔の匂い」と答える場面がある。こういう場面は、いかにもとってつけたようにも見え、寂聴の趣味の悪さを感じさせないでもない。


HOME日本文学覚書瀬戸内晴美 | 次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2008-2022
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである